Up 有識者会議の悲惨:教育再生会議 作成: 2006-12-26
更新: 2006-12-26


    官邸主導で立ち上げられた教育再生会議 (2006-10-10 閣議決定) が,現在悲惨な感じになっている。 「有識者会議/ディレッタンティズムの失敗学」という立場から,この内容をここで押さえておく。

    先ず,教育の素人でなければだれでもわかることだが,有識者会議/ディレッタンティズムが教育行政を方向付ける/左右することは危険である。

    ディレッタンティズムが教育論と相性がよいのは,教育が高度に複雑系であるためだ。何を言っても一分の理があるように見え,そしてその理は検証にかからない。
    しかし,実際に教育をいじれば,「一つの改良には百の不具合が伴う」といった感じになる。 なぜか?

    いまある教育は,<教育の歴史>の端である。 この歴史の中で,一つの均衡系を形成してきた。 一般に,複雑系には均衡系の含意がある。(実際,この均衡の構造・メカニズムが難解/人智を超えるので「複雑系」と謂われることになる。)
    ここのところが,素人にはわからない。
    よって,「一つの改良」を思いつきで述べながら,それに伴う「百の不具合」には思いが至らない。 ──素人とプロの差は,一つの改良に伴う百の不具合を洞察できるかどうかの差である。


    教育再生会議は,審議非公開とされた。
    この理由は,想像に難くない。 事務局がつぎのことを警戒したわけだ:
      教育のディレッタンティズムが,世論に影響を与える形で,独走する。


    政治の装置としての「有識者会議」は,行政府の政策を通す道具。 通したいと思う政策を有識者会議に言わせ,「有識者の決定であるので尊重しなければならない」という形をつくって,政策として出す。
    有識者会議は,この目的達成に適うよう事務局によって組織される。そして目的に適わない流れが有識者会議に見えてきたら,これを終わらせる。

    有識者会議の委員になる者には,論理的に,つぎの3タイプがある:

      有識者会議を組織する政治的意図に
      納得づくで委員になる者
      協力者
      自説を通すために
      敢えて虎穴に入ろうとする者
      政治的意図があることを知らない無邪気/呑気な者

    事務局は,思惑違いにいろいろ出会う中で委員のタイプを学習し,委員を配置等でコントロールする。


    教育再生会議の第1次報告原案 (事務局作成) が,21日 (2006-12-21) の会議総会で提示された。
    これに対し,委員の中から「我々の意見が反映されていない」の猛反発が出た。 事務局はこの反発に「実現可能性」で応えた。

    一見,改革対保守の対立構図に見えるが,教育再生会議が「一つの改良には百の不具合が伴う」の「百の不具合」を見ない手合いの雑駁な提案のオンパレードだった可能性はある。
    行政府にも,教育という複雑系の政策決定を有識者会議の形を借りて行うことの危うさが,回を進めるごとにはっきりわかってきたのだろう。いまは自分のかけたはしごを外しにかかっている感がある。