Up わからずに<必要>を捨てる 作成: 2006-11-26
更新: 2006-11-26


    成長は,時間が経つことと同じではない。
    成長に必要なことが行われていなければ,成長はない。
    成長を果たせなかったときが,「子どものまんまで大人に」(幼稚)。


    成長は,自己否定 (いまの自分を否定し,新しい自分に変わる) の積み重ねである。

    「自己否定」は,いろいろな時間スパンで考えられる。 ──瞬間瞬間のもの,すこし長いスパンのもの,かなり長いスパンのもの,というように。
    長いスパンで考える場合,自己否定はつぎのようなイメージになる:

      時間が経つと殻が形成されて固くなる。これを破って新しい自分が現れる。殻を破ってすぐは柔らかいが,時間が経つとまた殻が形成されて固くなる。そしてこれをまた破る。──これの繰り返し。


    この自己否定は,<社会>の中に身を置くときの葛藤から起こる。(いろいろな<社会>)

    葛藤が良質でなければ,良質な成長は得られない。
    学校は,良質な葛藤をつくるために設けられた社会的装置である。
    「良質な葛藤をもてるかどうかを偶然のことにはしない」というのが,学校という存在の<意志>である。


    葛藤は,肉体および精神に対する負荷である。負荷は「苦労・苦痛」に通じる。

    苦労・苦痛を「かわいそう」と見てこれを減じることを良しとすることが社会の風潮となると,成長に必要な葛藤が除かれる。 このとき,子どもは成長せずに大人になる。
    特に,「改革派」が優位になる時代に育った子どもは,「子どものまんまで大人に」の危険が大きくなる。


    どのような葛藤が成長に効いているかを捉えることは,難しい。 <成長>という複雑系は,一個の人間が自分の僅かな経験や知識から洞察したり理解したりできるものではない
    では,人は教育を立てられないのか?
    否,頼れる教育方法は既にある。既存の教育的知恵やシステムは,組織的に受け継がれてきた。 それは,先人の知恵と失敗学の所産である。実際,<成長>という複雑系を人が扱えるようになる形は,このようなものである他ない。

    「改革派」の所以は,既存を古いものとして捨てることにある。
    そしてこのことがそのまま,「改革派」のリスクになる。

    何事もそうだが,見掛けの下にはひじょうに深い層がある。 人の捉えられない層がある。
    よって,既存を古いものとして捨てるとき,ほとんどの場合,たちまちひどいしっぺ返しを喰う。

    このことを理解できない者が,軽薄に「改革」「新機軸」を唱えて,昔やられた同じ失敗を繰り返す

    わたしたちの前に存在しているものは,すべて歴史を伴っている。
    「改革」するとは,この歴史と競うことだ。 したがって,「やるなら覚悟して/肝を据えてやれ」ということになる。 ──このスタンスに立っていない物言いを「ディレッタンティズム」と謂う。