Up 自分の分野に比べ,学校教育の分野は劣っている 作成: 2010-02-08
更新: 2010-02-09


    自分は学校教育を改革できる」の思いは,つぎの思いである:

    1. 学校教育はダメになっている。
    2. 学校教育がダメになっているのは,学校教育をやっている人間がダメだからだ。
    3. 自分は彼らのようではない (自分は優れている)。

    どのような者が,この思いをもつことになるのか?

    自分は優れている」の思いを持つのは,なにかの分野で成功している者である。
    では,なにかの分野で成功していることが,どうして「自分は学校教育を改革できる」に転じるのか?

    例えば,スポーツAで成功している者は,スポーツBで成功するとは思わない。
    業種Aで成功している者は,業種Bで成功するとは思わない。
    しかし学校教育の場合は,「なにかの分野で成功している者は,学校教育でも成功する」になってしまう:

      社会人が教員になれば,学校教育はよくなる
      塾の講師が学校教員を指導すれば,学校教育はよくなる
      企業が学校を起こせば,学校教育はよくなる
      民間企業の経営者を学校長に就ければ,学校教育はよくなる

    これらのことが示すのは,「学校教育」が専門分野とは思われていないということである。 才覚や気持や感性でやっていける分野だと,ひとは思う。
    なぜか?
    つぎのように思うからである:
     自分は,小/中/高の生徒に教える内容を既に知っている。
     なぜなら,それを自分は小/中/高で習っているから。

    教員を志望する学生も,これと同じような思いをもつ:
     子どもを愛する気持はだれにも負けない (だから教員になれる)
    自分は子どもにわかりやすく教えるつもりだ (だから教員になれる)
    彼らは教員養成課程を,「どのように教えたらよいか」を学ぶところと思っており,「何を教えるのか」を学ぶところとは思っていない。 「自分は,小/中/高の生徒に教える内容を既に知っている。なぜなら,それを自分は小/中/高で習っているから。」というわけである。

    こうして,なにかの分野で成功している者が「学校教育」を才覚や気持や感性でやっていける分野と見るとき,その者は「自分の分野に比べ,学校教育の分野は劣っている」と見ることになる。 自分はうまくやっているのに,学校教育はうまくやれていないからだ。 「学校教育は才覚や気持や感性の劣った者がやっていて,彼らが学校教育をダメにしている。」となる。