Up 学校教育論の振り子現象 作成: 2006-11-13
更新: 2006-12-26


    学校教育の論は,極端から極端に飛ぶ。
    単純から単純に飛び,学校教育という複雑系に見合った構築のプロセスが起こらない。
    同じ繰り返しを振り子のようにやる:

        A で世の中ダメになった感じだから B,
        Bで世の中ダメになった感じだから A,
        ‥‥ (A と B の繰り返し)


    特に,マスコミは節操がない。
    「ゆとり」の教育施策で子ども本来の<めちゃくちゃ>を開放した結果いろいろとどうしようもないことが起こってきたことに対し,今度は「規律の厳格な全寮制の学校」を持ち上げたりする。

      「規則の厳格な全寮制の学校」は,文学や映画などではたいてい悪役になる。 オモテは厳格な規律,ウラは陰惨な人間関係ということで,(学校, 教師, 生徒) = (刑務所, 看守, 受刑者) の図で扱われるの定番。
      文学では,ヘッセの「車輪の下」が古典。
      映画では,例えばイギリスのパブリックスクールを扱った「if ...」(1969)。 ──この映画のフィナーレは,反逆グループの生徒が学校の屋上から教師や他の生徒に機関銃を撃つというもので,映画の観客がこれで溜飲を下げるというしくみになっている。

    実際,マスコミが学校教育論を取り上げるとき,それは「花火大会」。
    いろいろな花火をポンポン上げて,大会終了。さようなら。

    もちろんこれは「マスコミが悪い」という問題ではない。
    マスコミはビジネス。学校教育論を商品にしようとしたら,「花火大会」の形を選ぶことになる。 深くやったら,読者/視聴者はいなくなる。「深く」は,マスコミの守備領域ではない。


    問題 (深刻な問題) は,「深く」を請け負うところが無いということだ。
    本来なら,学校現場と学校教育の行政機関が「深く」を守備領域にしなければならないのだが,現実はそうなっていない。 行政自らが「花火大会」を主宰し,そして (「花火大会」を目くらましにして隠しておいた) 既定方針のトップダウンになる。

    なぜ,こんなことになるのか?
    この理由を,以下論じていくことにする。