Up ディレッタンティズム 作成: 2006-12-27
更新: 2006-12-27


    「教育改革」は,科学的/学術的な形・方法で論じられることがない。
    「思いつきを言って済ます」のような形に,いつもなる。
    なぜか?
    教育改革は,科学的/学術的な形・方法で論じられるべきものである」という認識が,はなから無いからだ。

      学術的に専門的な主題には,素人は寄ってこない。 科学的/学術的な形・方法でそれを論じることが,素人にはできないからだ。
      一方,「教育改革」という主題は,
        むしろ素人の方が,よりよくこれを語ることができる
      と受け取られている。 近頃は,会社トップの地位にある者の教育論に期待するという風潮ができている。


    ことばには,中身に対する無知を隠蔽するという「便利な」機能がある。 素人はこれで錯覚する。 そして,問題にアプローチした気になってしまう。

    すなわち,素人が「‥‥をすべきである」と言うとき,「‥‥する」はことばでしかない。 実際の行動を描いてそれをことばにしている,というのではない。
    実際の行動を描くとは,一定の時間を具体的な行為で埋める作業のこと。 しかし,素人は「‥‥をすべきである」と言って何かを言った気になる。 そして,「リアルな時間をリアルな行動で埋めてそれを示せ」と言われることで,「それを示せるかが問題なのだ」ということにはじめて気づく。
    ──ここで「リアルな時間をリアルな行動で埋めてそれを示せ」を言うのが,プロフェッショナルのインテリジェンスである。

    リアルな時間をリアルな行動で埋めてそれを示せ」のチェックをかけるプロフェッショナルのインテリジェンスが存在しないところでは,「教育改革」は「‥‥をすべきである」のことばのゲームになる。
    ことばの機能は<区別>なので,このゲームでは学校教育が複雑系であることが完全に捨象される。 実際,「教育改革」は,単に現行で使っているスローガンとは対極のスローガンの選択になる。
    ──こういうわけで,ディレッタンティズムが主導する「教育改革」は,振り子の向きを変え,以前来た道を戻らせるだけのものになる。


    ちなみに,現在はディレッタンティズムの流行期である。
    ディレッタンティズムの流行りは,プロフェッショナルなインテリジェンスの弱体化を示している。
    実際,ディレッタンティズムに対して,「リアルな時間をリアルな行動で埋められるかが問題なのだ」という的確な指摘を行い,そしてそれを行う場合の科学的/学術的な形・方法をクリアに示せるインテリジェンスは,いまのプロフェッショナルの側には見えてこない。
    特に,国立大学がいまこの状態にある。──そこでは,「法人化」という形で,ディレッタンティズムのトップダウンが (行政の推奨のもと) 進められてる。