Up 「必修逃れ」が現す建て前と本音 作成: 2006-11-02
更新: 2006-11-03


    「必修逃れ」の問題は,現在,「文科省と与党がつぎの内容で合意」という局面になっている:

      必修科目未履修の高校3年生に対する措置として,
      必要な補習授業が70時間を超えるときは,70時間の補習とレポート提出に代える。
      必要な補習授業が70時間以下のときは,50時間の補習に代える。

    文科省としては自分の方から規則を曲げることは言えないので,与党が規則を曲げることを言う役を請け負い,協議・合意の形作りをして (つまり,文科省が妥協したという形をつくって) 「救済」ができるようにしたというわけだ。


    この間,必修科目に対しこれを「大事」とするのは建て前であって,本音は「やらなくてもかまわない」であることが,すっかり暴露されてしまった。

    未履修の必修科目は,学習することが重要だから補習授業されるのではなく,履修規則に合わせる (受験競争でのズルを許さない) ために補習授業される。 実際,「あわただしい時期のあわただしい授業」になること,つまり「意味のない授業」になることをみなが知っている。ただしそれは言わないことにして,だまされたふりをしているわけだ (「裸の王様」)。


    受験競争は,学生に,受験科目以外の科目の履修を無用のことに思わせる。
    さらに,勉学上受験と直接関わるように見えないものを無用に思わせる。
    こうして,勉強は受験勉強になる。

    受験競争の問題は,勉強が受験勉強になること。

    勉強が受験勉強になるので,「必修逃れ」は「ズル」の意味になる。
    必修科目を勉強した者は「ばかを見た」「損した」者であり,「必修逃れ」した者は「得した」者である。 実際,マスコミ報道では,「不公平」のことばがこのようなニュアンスで使われている。 「必修逃れ」で必修科目を勉強しなかった者は,このことで「損した」者ではないのである。


    「必修逃れ」をテクニカルに手当しようとするのは,問題の隠蔽にしかならず,将来のためにならない。 ここに至ってはもう何もせず,しっかり「学校教育の歴史に残る汚点」として残した方がよい。
    どうせ,この段階で手当を必要としている者はいない。 「不問に付す」となるのがいちばんありがたいわけだ。
    つまり,文科省が,立場上の体裁から,「手当をする」を言わねばならないとを思っているだけだ。

      50時間でよいとされても70時間行うのがのぞましい」だとか「未履修で卒業してしまった者に再履修の機会を与えることの検討」だとか言っているが,体裁づくり (実際,だれも相手にしないこと) であることが見え見えで,かえって見苦しい。

    バタバタした状況でバタバタした措置をしても,教育的に何のいいこともない。
    しっかりリセットするというのが,教育的な考え方である。

    何をリセットする?
    「必修逃れ」をズルとする形の「不公平」論が出てくるということは,勉強が受験勉強になってしまうことを世の中全体が認めているということだ。 「必修科目」に意味を認めていないということだ。 いまいちばんしっかり押さえておかねばならないのは,ここのところ。
    で,何をリセットするか?
    先ず,(1)「学習/教育の意義」の議論──本質論から始める。(受験勉強が「勉強」の意味になってしまう,「必修科目」が無意味になってしまうのは,本質論の立場からの「学習/教育の意義」の立論が脆弱で根気がないからだ。よって,お茶の間教育談義や行政にリードされてしまう。)
    そして,(2) 必修科目の授業の立て直し──「必修科目」の意義を担うに足る内容のものに変わって再出発する。