Up | 教科を理解・尊敬する能力の低さ | 作成: 2006-11-05 更新: 2006-11-05 |
表現のおもしろさも合わせ,これはもう笑うしかない。 「必修逃れ」の問題の本質は,学校側の「教科を理解・尊敬する能力の低さ」である。 これをそのままにして数合わせの事務的処理で事を収めようしようとしているのが,いまの文科省。 テクニカルなその場しのぎのやりかたは,問題の隠蔽にしかならない。 ここは,「必修逃れ」の問題露呈をせっかくの機会ととらえ,学校現場における「教科を理解・尊敬する能力の低さ」をしっかり問題にした方がよい。 学校教員は教科教育のプロと思われているかも知れないが,実態はそうではない。 わたしの守備範囲の数学教育で言えば,教職についてから数学の内容を勉強するものは,中学校・高等学校で数学科を担当する教員でもむしろ稀。小学校教員の場合は,数学に関する知識・学力は高校時代がピークかも知れない。 「何?」「なぜ?」という形で問われるタイプのことがらは,「何?」「なぜ?」の質問を自ら発し自ら答えを求めることを知らない者には,決して意識の対象にならない。 「教科教育とは何か?」「なぜ教科教育か?」と問われたときには,問いの意外性にどぎもを抜かれ答えにしどろもどろになる教員が圧倒的多数。 学校教員の多くは,「何?」「なぜ?」を持たずに授業をしている。(「学校での勉強は何のため?」) 教科に対する「何?」「なぜ?」を理解すれば,自ずと教科を尊敬するようになる。 いま,学校教育では,教科が尊敬されていない。「教科を尊敬する」というコンセプトが存在しない。 それは,教科に対する「何?」「なぜ?」が知られていない・理解されていないためであり,「教科の何?なぜ?を理解する」というコンセプトが端から存在しないためである。 こんな状態での授業を,わたしは「未だ<魂>が入っていない授業」と表現しよう。
授業も同じ。教科に対する理解と尊敬が,個々の授業にその授業に相応しい<魂>を入れる。 <魂>の入っていない授業は,どうでもよい授業,あってもなくてもよい授業になる。 文科省が「必修科目」と定めても,<魂>の入っていない授業がやられていれば,それは履修しなくてかまわない科目だ。 現場は,「履修しなくてかまわない科目」をより実質的と思う科目にとりかえる。当然の成り行きだ。 で,最初に述べたことに戻る。 学校側において教科が理解されていないというのが,「必修逃れ」の問題の核心。 「世界史逃れ」「毛筆逃れ」の原因は,世界史,毛筆の「何?」「なぜ?」が学校側にないこと。 受験教育の根底には,教科を理解・尊敬する能力の低さがある。 問題の表面的な捉えやその場しのぎ的な対応は,問題の本質を隠蔽する。注意しよう。 |