Up 「君が代/日の丸」忌避教員問題のとらえ方 作成: 2007-02-28
更新: 2007-02-28


    昨日 (2007-02-27),「君が代」ピアノ伴奏の校長職務命令は合憲の最高裁判決があった:

      小学校入学式での「君が代」のピアノ伴奏を,校長が音楽科教諭に命じ,教諭がこれを信条の理由から拒否した。
      このことで,都教育委員会が教諭を懲戒処分。
      教諭は,校長の職務命令は「思想・良心の自由」を保障している憲法に違反であるとして,処分の取り消しを求める訴訟を起こした。
      裁判は最高裁まで行き,最高裁は校長の職務命令を合憲と判断した (裁判官5人のうち反対1)。


    純粋に「規則の論理」および「自由主義の意味」の視点から判断すれば,この判決は誤りである。 実際,裁判官にしても,政治的空気を考慮して確信犯的にこの判決をつくっているわけなので,ここで愚劣をあげつらってもあまり意味はない。

    ただし,「サヨク教員懲らしめ」感覚でこんなことをやっていると後で高くつく (自由主義の自殺行為になる) ということは,ひとりひとりがしっかり肝に銘じておく必要がある。


    わかりやすいように,立場を180度ひっくり返して,いまサヨク独裁国家にいるとしよう。 党と領袖を讃える歌が国歌だ。
    校長が,音楽科教諭のあなたに,国歌のビアノ伴奏を命令してきた。 あなたは,内心バリバリの自由主義者でこんな政権が心底嫌い。 しかし,ビアノ伴奏を拒否すると処刑されるので,自分を裏切ってこの命令に従う。 そして「情けない自分」として自分を生きることになる。 たかがピアノ伴奏ではない。

    実際,自由主義は,こんな被抑圧的で屈辱的な生き方は絶対つくらないぞ!という強い決意で立ったものだ。 そして,自由主義が曲げられないように,事細かく規則をつくる。 規則の細部の一つ一つに,きちんと意味がある。

    ところが,自由主義が所与になっている者は,自由主義の意味がわからない (というより「意味」の概念がない)。 よって,都合的な規則の運用をしだす。 長い歴史の中たいへんな苦労と犠牲によって築かれてきたものを,己の数週間・数か月・数年の都合で壊す。

    なんでもそうだが,人のつくったものには意味がある。
    その意味は,つくった者が知っている。
    所与になっている者には,意味がわからない。


    最高裁の判断に話を戻すと,憲法と公務員法を関係づけるやり方がまったく論理になっていない。 憲法は公務員法の上に位置する。 これは絶対である。
    自由主義では,「個人的思想・良心の自由」が最上位であり,「全体への奉仕」の概念は「個人的思想・良心の自由」に基づいて考えられるものになる。(「全体への奉仕」の意味も,個人の中に存する。)「全体への奉仕のための個人的思想・良心の自由の制限」という発想は,自由主義にはないのだ。

    規則の論理をご都合的に崩すような者が裁判官でいるというのは困ったことなのだが,しかし今日の風潮として,この手の困り者はあらゆる分野で増えている。(所与からはじまった者には,意味がわからない!)

    しかし,今回の件でいちばん問題があるのは,やはり校長・都教育委員会の方である。
    最高裁が校長職務命令違憲の判決をしたら,都教育委員会にとってはとんだヤブヘビということになる。 そして,本来なら,違憲判決になるべきものなのだ。
    争う形づくりのセンスがどうにも悪い。そして,スジの悪いことをやるのは,優先順位をつけるもとの論理が狂っているからだ。

    では,「君が代」のピアノ伴奏はどうしたらよい?
    自由主義では,「組織の中で個人的思想・良心の自由と折り合いをつけろ」ということになる。 「個人的思想・良心の自由」からピアノ伴奏を拒否しているのならば,それを尊重しなければならない。 これは絶対ルールだ。
    よって,校長の「職務命令」はここでは使えない。公明正大に広く議論を興し,それで思う方向に行かないのなら,ただ退くのみ。(ビアノ伴奏奏者を他に求め,見つからなかったら伴奏なしでできるよい形を考える,へと進む。) もちろん,都教育委員会の「懲戒処分」の出る幕もない。