Up 体罰禁止の理由は,「面倒くさいから」 作成: 2008-03-15
更新: 2008-03-15


    学校教育では,体罰は禁止されている。
    これは「よい・わるい」の考えから禁止されているのではない。
    いろいろ面倒くさいことになるから,禁止している。

    ただ,「<いろいろ面倒くさいことになるから>を理由として言うわけにもいかない」を自分の立場と考える者たち (教育委員会とか学校管理職など) は,法律とか「人権」とかで体罰禁止の理由づけをやることになる。

    いろいろ面倒くさいことになるのは,場面も当事者も多様であるからだ。
    批評する者も多様だから,賛否両論になる。


    例:読売新聞, 2008-03-14
    「熱したスプーンを生徒の手に、苫小牧の中学教諭が体罰」

     北海道苫小牧市内の市立中学校で昨年3月、男性教諭(39) が理科の授業中、ガスバーナーで熱した鉄製のスプーンを当時2年生だった男子生徒 (15) の手に押し当て、全治2週間のやけどを負わせていたことがわかった。
     市教委は学校から体罰の報告を受けたが、1年間にわたって道教委への報告を怠ったため、男性教諭の処分も行われなかった。
     市教委によると、男性教諭は昨年3月8日、理科の実験でガスバーナーを使用した際、男子生徒が熱したスプーンを同級生の手に押し当ててふざけていたため、「自分がやられたらどう思う」と言って取り上げたスプーンを熱し直し、男子生徒の右手の甲にスプーンを押し当てたという。
     男子生徒は翌日、全治2週間と診断された。男性教諭は治療費を負担し、生徒や保護者に謝罪した。
     市教委は体罰について、翌日には学校側から連絡を受けていたが、道教委には先月下旬まで報告していなかった。
     市教委は「当時は学校側の対応で収まるとの判断もあった。さらに、担当職員の異動時期で十分な引き継ぎが行われず、うやむやになった」としている。

    「自分がやられたらどう思う」の体罰は有効なものである。
    一方,これを一般的に「有効」と言ってしまうと,いろいろ落とし穴が待っている。

    「教育」は素人談義のしやすいもので,「こうすればいい」が簡単に言い合われる。 しかし教育は,「どの一つの方向選択にもたくさんの落とし穴が待っている」という,とんでもない複雑系である。


    「どの一つの方向選択にもたくさんの落とし穴が待っている」とんでもない複雑系であるところの教育は,自ずと,「いろいろ面倒くさいことにならないように」でリードされるものになる。
    「事なかれ主義」というやつである。
    面倒くさいことになりそうなものの一括禁止に進む。


    上に引用の例では,「男性教諭は治療費を負担し、生徒や保護者に謝罪」が<落ち>となった。
    これに対し,文章にすれば同じく
    男性教諭は、理科の実験でガスバーナーを使用した際、男子生徒が熱したスプーンを同級生の手に押し当ててふざけていたため、「自分がやられたらどう思う」と言って取り上げたスプーンを熱し直し、男子生徒の右手の甲にスプーンを押し当てた
    となることが別の場所で起こり,その<落ち>が
    「男子生徒の親は,男性教諭に「よくぞ指導してくださいました」と感謝を述べた。」
    であることも,可能性としてあり得るわけだ。


    「体罰」の問題は,つねに「事なかれ主義」の問題を反照的に現す。

    体罰は禁止されているが,依然教育現場で無くならない。 ──これは,困ったことではなく,<救い>である。
    「体罰」禁止のルールに即反応して体罰が教育現場に一切無くなる状態は,「事なかれ主義」への屈服を意味する。

    そこで,問題は,<知恵>である。
    「規則」は,「いろいろ面倒くさいことにならないように」の事なかれ主義がつくる。 それだけのものである。
    「信号の赤では止まれ」は,自分以外車のない道にも適用される。
    大事なことは,規則に従うことではなく,規則を適切に逸脱して社会の精神の<健全>を保つことである。

    ただしこれが可能になるためには,「適切と思える体罰には,応援することを憚らない」が社会の精神に存していなければならない。 これは,個々人の自覚と実践の問題である。