Up 教員の教育能力 作成: 2007-01-12
更新: 2007-01-12


    ダメな授業をする者は,ダメな授業であることがわからない。
    ダメな授業をする者は,「授業がうまくできないと悩む者」ではない。 ダメな授業をする者は,自分ではちゃんと授業ができていると思って,ダメな授業をする。

    「ちゃんと授業ができている」と思うのは,どういうのが「ちゃんと授業ができている」なのか知らないからである。
    ひとは,自分を否定する者が現れないうちは,自足している。 自分で自分を否定することはできないから (「自分を否定する自分」は自分に過ぎない),自分を否定する者が現れない限り,自足が続き,したがってダメな授業が続く。

    特に,教員を長くやっていることは,「ちゃんと授業ができる」ということとは無関係である。 教員を長くやっていることの中身が「自足を長く続けている」であれば,ダメな授業は変わっていない。


    教員が最も気づかない「自分のダメ」は,つぎのものである:
        「授業内容 (理論) を理解していない」
        「論理があやふや」

    教員は,自分が授業内容を理解していることを疑わない。論理的におかしい流れで授業を進めているとは思わない。 そして,問題意識は「それをどう教えるか?」に専ら向いている。──すなわち,問題意識は「指導法」で終始する。


    授業内容 (理論) がわかっていなければ,そして論理の進行がわかっていなければ,授業のストーリーを立てることができない:
      どのような段階を踏み,どこをゴールとするのかが,わからない。
      生徒が本質的な困難と対峙するところが,わからない。
      どうでもいいここと肝心なところの区別を,つけられない。

    裏返せば,授業内容 (理論) がわかっておらず,そして論理的な間違いをおかしているのに「自分は授業内容を理解している・論理の進行におかしいところはない」と自足している者の授業は,メチャクチャになる他ない。

    授業内容 (理論)・論理がわかっていないために授業のストーリーがメチャクチャであることがわからず,指導法が勝負だと思っている様は,ストーリーのダメな映画の制作にせっせと労力をつぎ込んでいるのと同じである。
    その労力は,端から無駄である。 ストーリーのダメな映画は,いくら優秀な俳優をそろえても,また映像づくりにいくら力を入れても,よくなることはない。 (逆に,ストーリーがすばらしければ,演技や映像の欠点はある程度がまんできる。)


    こういうわけで,学力が,教育能力の中心にくる
    学力がなければ,教育はできない。

      ちなみに,教員養成コースには学力軽視の風潮があって,これが学生にも伝染する。
      そのような学生は,教員になっても学力を軽視する。( 教員の学力)


    ただし「ダメな授業」は,それをやっている教員自体が「ダメ」とは思っていないように,バレにくい。 それは,学校教育が,<できる・できない><答えがあっている・あっていない>で進行しているからだ。
    <わかる・わからない>で進行しているのではなく <できる・できない><答えがあっている・あっていない>で進行しているので,<わかる>をはしょる学習 (著しくは,暗記学習) が成立する。
    生徒の側のこの「<わかる>をはしょる学習」が,教員の「ダメな授業」をカバーする。よって,教員は「ダメな授業」を続けていられる。