Up 「改革」が破壊になる構造 作成: 2007-04-03
更新: 2007-04-03


    「改革」は,たいてい破壊に進む。

    「改革」が破壊になる構造・力学を十分理解・認識している者が「改革」の任に就くことは稀である。 たいていは,ぽっと出が「改革」の任に就き,思いつきでことを進め,これまで先人そして自分たちが苦労して築いてきたものを簡単に破壊する。 そして,当人には「破壊している」という自覚がない。


    「改革」が破壊になる構造・力学を,ここで押さえておこう。

    改革は,現行・既成の行き詰まりから起こる。
    現行・既成を同じ形では続けていかれない──同じ形で続けた先は破綻・破産である──という現実が,出発である。 そして,現行・既成を改めることに進む。

    問題は,「生き残り」というスタンスで「改革」が行われるところから起こる。
    この場合の「生き残り」は,「自分のこれまでの図体の維持」「自分たちの金銭的収入をこれまでと同じ規模に保つ」ということ。
    このとき,<業態>は<金銭的収益性>に還元される。 そして,現行の業態Aを業態Bへと変更したときの収益が勝るとなれば,業態Bを採る。──現行の業態Aを捨てる。

    「金銭への還元」は,「業態を等閑視する」という方法論である。
    この方法論を純粋に実行している典型が,「ファンド企業」。


    いまは「企業生き残り」スローガンのバブルが沈静化しつつある段階にある。 バブルまっさかりの時期には,企業で本業の破壊が進められた。そして現在,そのとき思いつきでつくってしまった不整合な業務の運営・整理と本業復活に苦慮している。( SONY の地位失墜 (本分/本領の閑却))

    一方,法人化後の国立大学は,現在「生き残り」スローガンのバブル最盛期にある。
    自分のこれまでの図体の維持というところから出発するので,業態を金銭に還元することをやる。 そして,本業を収益がよさそうに見える (入学生数の確保がしやすそうに見える) 業態に変えていく。
    しかも始末が悪いことに,業務形態の変更をしっかりした計算の上でやっているのでもない。──思考停止の相でやっている。


    一例を挙げる。
    北海道教育大学札幌校の学校教員養成の課程では,教科教育というフレームが外された。 教科教育の科目は「免許対応科目」になった (従来は,「学校教育教員養成課程-教育専門科目-指導法」のようなとらえ)。
    これは何を意味するかというと,「学業の中で併行して免許もとれますよ」式の大学に変えたということ。

    従来の教員養成系大学・学部は,教員の目的養成を本務とし,教科教育の科目を必修科目 (卒業要件科目) にする。 これは,アウトプットである「将来の教員」に責任をもつということを意味する。
    しかし,北海道教育大学の執行部は,大学の敷居を低くし,内容を緩くし,専門教育を総合教育化することが「改革」の方向 (自分のこれまでの図体を維持することのできる方向) であると受け取った。そして,このような改造を進めた。

    このような改造に将来的勝算がないことは,論理的にわかる。
    教員養成系大学・学部は,教員の目的養成で立つ。 ぬるいシステムで「将来の教員」をアウトプットすることはできない。 (ぬるいシステムで「将来の医者」をアウトプットできるか?と考えてみるとよい。教員は医者より「能力の低さがもたらす危険度」が低いわけではない。)

    課程改造後に入学した学生をやがて世に出す時期になれば,システムの拙さがいやでも問題化する。 しかし,本業破壊は一瞬だが,壊したものの取り返しは実際上不可能になる。 (「大学執行部のメンツ」「大学の世間体」がものを言う<世界>に陥る。)

    これは,国民に対する損害行為/背信行為。
    「法人化」の問題の中心は,本来国民に貢献すべき立場の国立大学が,「自分のこれまでの図体の維持」から出発することで,「本業破壊」という国民に対する損害行為/背信行為をはたらくというところにある。


    要諦は,「生き残り」のスローガンが煽る状況がつくられるのを許してはならないということ。また,一旦つくられたときには,それを自由にさせてはならないということである。