Up 学校での勉強は何のため? 作成: 2006-09-08
更新: 2006-09-08


    今年度前期,学校教員養成課程の新入生を対象とする「教職論」という授業をもった。
    この授業では計11本のレポートを課したが,最終回に,「勉強するとは何か?何のために勉強するか?」の題のレポートを課した。 意図は,学校教員になって必ず生徒から起こってくる「なんで勉強するの?」の問いに自ら答えることができるかどうかの自己チェックと,今後の研鑽を促すため。

    わたしとしては,学校教育の中心である教科教育の意義についてどのように答えてくるかというところを見たかったのだが,この点は肩すかしとなった。 しかしこのことも含めて,レポートの内容は学校教員を志す学生の意識が知られて,なかなか興味深い。


    概して,教員志望の彼らにも,「教科教育の意義」は考察の主題にはならないといった感じである。
    ほとんどの者が,「将来のため」──勉強しないといろいろな意味で将来困ることになる──を挙げる。 そしてこれの意味として述べられるのは,
      (1)進路の選択肢が拡がる
      (2)一般陶冶 (判断力/表現力/応用力,学ぶ力,精神力/忍耐力,教養,人格/社会性)

    (1) に関しては「将来の進路と関係ない勉強は無駄」が導かれることになり,(2) に関しては曖昧感があるので,論は 「自ら無駄と知って無駄をやる」ことの合理化にも進む (いちばん手近なものとして「受験」)。


    しかし,これが学校教育の意味であるならば,われわれは,ただ<将来>のためを理由にして,意味づけされない<現在>を,十年余りの間過ごしてきたということになる。 そして「こんなもんだ」と納得している,というわけだ。

    巷の教育論も程度は似たようなもので,「基礎・基本」と「ゆとり・豊かな人間性」の対立項しか持たない。「基礎・基本」以上のところを意義づけられないので,伝統的な授業は「知識の詰め込み」「受験のための授業」ということにされてしまう。

    ともかく,「勉強の<現在>的意味」が教員志望の学生においてさえも考える主題にならないということは,学校の授業でも「勉強の<現在>的意味」が教えられることがないということだろう。生徒には「なぜこれを勉強するか」が教えられず,生徒は「なぜこれを勉強するか」に思考停止して勉強する。

    こういう状況なので,「勉強の<現在>的意味」をここに改めて述べることにする。


    勉強は,成長が目的である。すなわち,いまの自分の<小さい・狭い>を,<大きい・広い>に向けて少しずつ変えていくことが目的である。
    この成長を,「自分の殻を破る」という形,すなわち「自己否定」の形で行う。

    「自分の殻を破る」「自己否定」が起こるためには,<自分の殻の外><自分を否定するもの>──すなわち<他者>──に出会わねばならない。 <他者>によって,自分が否定されると同時に,<これまでの自分>が自らに対象化され,認識・理解の対象になる。自分を知るとは,他者の存在を知ることである

    そして,学校教育は,
      「子どもが他者と出会い,
       自分を認識・理解するという形で成長する」
    を組織的・機能的・効率的に実現するためのものである。


    教科が用意する<他者>は,つぎのようなものである:

      <他者>を与えて
      子どもの意識に対象化させようとするもの
      このための教科
      自分の置かれている場所・状況・文化 地理,歴史
      自分のものの考え方・感じ方 国語・古典・外国語,数学
      生命体としての自分 生物,地学
      自分が在る物理的/合理的世界 物理,化学
      自分の体力・体機能 体育
      自分のアート的表現力 美術,音楽

    このように,教科教育は,一つ一つの局面で,明確に言語化できる成長を実現しようとしている。 (併せて,言語化しにくい/できない成長を実現している。)

    人は,自分の狭い生活空間の中では (良質な)<他者>とほとんど出会わない。したがって,そこでは成長しない。(家庭や地域では成長しない!)
    教科教育の意義は,子どもに<他者>と出会わせ成長させることを,組織的・機能的・効率的に行うことである。

     例 : 自分をしっかり相対化してくれる良質な思想や感性に手っ取り早く出会おうとしたら,古典がいちばん。精選されたものがいまに残っているからである。
    古文とか漢文は,「自分がしっかり相対化されてくる良質な思想や感性との出会い」をさせる教科。しかし,古文・漢文の教科の意義をこのように受けとめることのできた生徒は,ほとんどいないのだろう。(古文・漢文の授業が巷の受験参考書のようであれば,とうぜんこうなってしまう。)