Up 考える力のない大学生 作成: 2008-02-05
更新: 2008-02-05


    これまでずっとひとところに閉じこもる生き方をしていて,自分の身の回りが自分の世界のすべてである者に対しては,どんな題であればレポートを書かせることができるか?
    無理である。

    レポートを書けるためには,自分の世界が自分の身の回りより圧倒的に大きい必要がある。


    では,自分の身の回りより圧倒的に大きい世界は,どうしたら得られるのか?
    勉強 (学問) によってである。
    何によって勉強 (学問) するのか?
    探求の書 (学術的な書や文学書) が,基本である。

    探求の書は,<おいしいところ>を示したものである。
    その<おいしいところ>は,人類史の遺産ということになる。
    探求の書を読むとは,人類の歴史の長い時間をふっとばして,いいとこ取りを瞬時に行うということ。
    これが,自分の身の回りより圧倒的に大きい世界が得られる秘訣である。


    いまの大学生は「大学生のように考える・文章をつくる」ができない。
    <これまでずっとひとところに閉じこもる生き方をしていて,自分の身の回りが世界のすべてである者>だからである。
    「考える・文章をつくる」をやると「小学生のように考える・文章をつくる」になってしまう。

    このことを指して「考える力がない」と言うが,これの意味は「子どものままで成長していない」(「自分の世界が子どものときの世界から成長していない」) である。
    「成長していない」のは,成長に必要なことをしてこなかったから。
    すなわち,勉強 (学問) をしてこなかった──探求の書を読むことをしてこなかった──からである。

    考えるための手がかりになる内容・形式をもたなくて,「考える」はできない。 (逆に,良質な内容・形式が蓄積されていけば,自ずと「深く・広く・よく考える」をするようになる。)


    <これまでずっとひとところに閉じこもる生き方をしていて,自分の身の回りが世界のすべてである者>をつくるものは,やはり学校教育である。

    <これまでずっとひとところに閉じこもる生き方をしていて,自分の身の回りが世界のすべてである者>は<自足している者>であるが,ここしばらく学校現場では,<自足している者>を壊さないことが教育的にいいことだとされてきた。 ──「子ども主体で,教師はこれを支援」である。

    こうして,学校からは「子どものまま」が押し出されてくる。
    この「子どものまま」が大学生になると,「考える力のない大学生」になる。