Up 教職に対する適性の考え方 作成: 2006-10-23
更新: 2006-10-23


    学校教員養成コースの指導教員は,授業等を通じて学生の教職に対する適性 (向き不向き) を見て取り,指導にフィードバックする。

    しかし,「適性」といったものは,一般には判断できない。
    実際,一つのことを10年,20年と続けてやっていれば,ほとんどの場合,その道のプロになる。 人間のカラダ・アタマは,こんな具合によくできている。
    適性は,実際にその道に入ってみなければわからない」というのではなく,「適性は,実際にその道に入ってしまえば,つくられる」のだ。

    「適性」とはこの程度のものなのだが,教職の場合は扱いが厄介。
    学校教員の場合は,「一つのことを10年,20年と続けてやっていれば」が問題になる。 この修行期間の間にも,身分は「一人前の学校教員」。 そして,能力の低い教師にあたってしまうのは,子どもやその親にとって被害である。


    したがって,現行の教職システムの下では,「教職に対する適性」に「即戦的」を入れざるを得なくなる。 つまり,教職に就くためには,教職に関して器用であることが求められる。

    実際を言えば,教育力不足は器用でカバーされるものではない。
    また,不器用は器用に追いつく。そして器用と不器用のどちらが教員として将来伸びていくかはわからない。( 成績評価と成長評価)
    しかし,教育力不足に不器用が加わったときには,実際どうしようもない。教員の場合,「修行中」は「教育力が劣る=生徒にとって被害」の意味になる。生徒にとって,能力の低い教員にあたってしまったその時間は,一度きりの時間,戻ってこない時間だ。


    問題の要点は,「修行期間の間にも,身分は一人前の学校教員」という矛盾。 そして,これからいろいろな問題が生じてくる。
    その一つが,「一人前の学校教員の身分に慣れて,修行を閑却する」という問題。 ──こういうことがあるので,「不器用は器用に追いつく」がますます真理になる。