Up | 教員養成課程のデザインにおける必然性 | 作成: 2006-01-24 更新: 2006-01-24 |
「人に教える」は,「人の命をあずかる」と同じく,ひじょうに重い。よって,教員養成課程 (=「人に教える」資格ある者をアウトプットする課程) のデザインはひじょうに重い。一時的な思いつきでいじるようなことが許されるものではない。実際,教員養成課程のデザインには,論理において忽せにできない部分がある。
課程のデザインは,大きくつぎの2つでなる: ゴール について: 学校教員の能力の根幹は,教科を指導する力。 教科を指導する力の根幹は,教科の内容 (学問的内容) の理解·学習力。 したがって,教科の内容 (学問的内容) の理解·学習力が,<ゴール>としての「卒業生の能力」の根幹になる。 スタート について: 大学生の学力低下は,目に余る。これは,学力低下を招いて当然の教育──やさしい教育──を彼らが受けてしまったためだ。 この低い学力が,<スタート>。 スタートからゴールに至る階梯 (授業カリキュラム) について: 低い学力で入学してきた学生が,将来学校教員になって「人に教える」。大学在籍中に,彼らの能力を「人に教える」ができるまでに飛躍的に向上させねばならない。 この仕事の根幹は,<ゴール>の根幹である教科の内容 (学問的内容) の理解·学習力の育成。これは,生半可な仕事ではない。階梯をきちんと合理的にデザインしなければ達成できない。 教員養成課程は,伝統的に教科教育中心だが,これは正しい。 教科教育に中心を置くとき,教科の学習が核となって,教育に関わるいろいろなことが総合的/統合的にそして実体的/実質的に学習されるようになる。 学習が成立する形は,ある一つの事を深く学ぶことでいろいろなことが併せて学ばれるというもの。「ある一つの事を深く学ぶ」がなければ,学習は拡散し,浅くて何の輪郭もないものになる──そもそも,学習でなくなる。
「ある一つの事を深く学ぶ」とは,結局,一つの理論 (論理的体系) を学ぶこと。 ひとは,長い歴史の中で,さまざまな理論を作り出した。これら理論のうち基本的で重要なものを,教科が分担して扱う。 理論は現前 (presence) とは全く別のもの。理論は,現前の写生ではなく,現前を構築物と見る方法。したがって,理論の学習によって,生産や創造が可能になる。 このような理論は,それぞれに深い。理論を学習することは,同時にこの深さを学習すること。 深い学習を行い,「深さ」を知り,その「深さ」において教科に尊敬の念を持つことは,「人に教える」能力鍛錬の中心に位置づく。教員養成課程は,このような能力鍛錬を真に実現するものでなければならない。
教員養成課程は,「深さ」を基調に構築する。「深さ」において良質を競い,他と差別化する。これが,社会から高い評価を得られる教員養成課程を構築するストラティジーになる。 教員養成課程に「気の利いた」デザインなどない。「必要なものをきちんと設ける」は絶対であり,これを確実に行うとき,教員養成課程のデザインはある程度必然的なものになる。 なお,ここで「必要」を誤解すると,最もやってはならないことをしてしまう。それは,教員免許要件の最低ラインに合わせてカリキュラムを構築すること。 教員養成課程は,「人に教える」資格のある人材を世に出すことが社会的責務。そして,教員免許要件は「人に教える」資格の要件とは何の関係もない。ところが,最低ラインを越えるコース設計は「学生の不利益」のことばで退けようというのが,ここしばらくの風潮だ。 教員養成課程の責務は,「人に教える」資格のある人材を世に出すこと,それを実現する教育を構築し行うこと。この点で,評価委員会/文科省が行う大学評価のうちの「教育研究等の質の向上」の評価は,大学の教育研究等の質の向上の評価にはまったくなっていない。そもそもどのような教育・研究が行われているかの調査もしていないのに「評価」を下すなど,無責任極まりない。 そして不思議なことに,この単純におかしなことに対して「おかしい」という声が大学人から上がってこない。 ともかく,評価委員会/文科省が,できもしない/やってもいない評価を「評価」と呼ぶのは,明白にモラル・ハザードだ。道義的に,こういうことは許してはならない。 |