Up 「個の多様性」論は「障害者」論と同型 作成: 2008-11-27
更新: 2008-11-27


    自由主義社会の教育は,「個の多様性」を基本コンセプトにする。

    「個の多様性」は,「組織の<いのち>」の位置づけで,組織論の内容になる。
    自由主義は,全編,「個の多様性」の哲学である。

    「個の多様性」は,組織の<いのち>である。
    「個の多様性」を捨てる組織は,現に死ぬ。


    「個の多様性」論は,基本構造において,「障害者」論と同型になる。

    「障害者」の操作的定義は,「この評価テストにおける低得点者」である。
    「障害者」は,評価テストに依存する概念であり,「障害者」のことばは単独では立たない。 「障害者」を問題にすることは,評価テストを問題にすることと同じである。

    あるテストに,「障害者」析出の含意があるとする。
    このこと自体では,問題ではない。
    問題は,「障害者」を析出した上で,さらに不利益を課す (この意味で,「ペナルティ」を課す) ことが目的になっている場合である。
    「ペナルティ」が存在しているとき,「差別はよくない」の話になる。

      人間ドックの身体測定に対し「差別はよくない」が言われないのは,そこに「ペナルティ」が存在していないからである。


    あるテストで「障害者」となり「ペナルティ」を課されることになった者は,「このテストに対しどのようなスタンスをととるべきか?」を問題にしていくことになる (この問題から逃げられない者になる)。

    この問題をもった「障害者」のうちには,このテストにおいて自分がどのように「障害者」であるか,さらにどのような「ペナルティ」が課されてくるかを,はっきり示したいと思う者がいる。 これをすることで,逆にテストの意味 (「障害者」の意味) が真に問われるようにしようというわけである。


    「差別」が問題になるときには,「障害者を差別から守ろう」という考え方をもつ者が現れてくる。
    この「障害者を差別から守ろう」は,「障害者」にとって問題になる。
    「障害者を差別から守ろう」とする者は,自分を「障害者」の味方であるとする。 しかし,「障害者」の味方であるかどうかは,「障害者を差別から守ろう」で何をやるかで決まってくる。

    すなわち,つぎのことが「障害者を差別から守る」になると思い,これを行う者が出てくる:

    • 「障害」を見えにくくすること。
        例: 徒競走で,全員手をつなぎ横一列でゴールイン。
      ことば狩り
      (「"障害者" は "害" の字がよくない,
        "障がい者" でなければならない
      」のたぐい

    • だれが「障害者」かがわからないようにすること。
      (=「ペナルティ」運用の実際を,見えなくする。)

    • 「ペナルティ」を優しく与えること。
        例: ことば狩り

    要するに,<個>としての「障害者」の存在をぼかすということである。
    これは,自分がどのように「障害者」であるか,さらにどのような「ペナルティ」が課されてくるかを,はっきり示したいと思う「障害者」にとっては,迷惑な話である。

    「障害者を差別から守ろう」は,「障害者」のことばを「個の多様性」から最も遠い位相で用いるもの,即ち「かわいそうな障害者を差別から守ろう」になりやすい。

      かわいそう」とは,「劣っているからかわいそう」ということ。すなわち「優劣」の思考法に立っている。
      「個の多様性」の核心は,この「優劣」の思考法の否定にある:「優劣ではない,多様性だ!


    「障害者」の定義は,「この評価テストにおける低得点者」である。この定義は,操作的定義である。 「障害者」は,評価テストに依存する概念であり,「障害者」のことばは単独では立たない。 「障害者」を問題にすることは,評価テストを問題にすることと同じである。

    評価テストの得点を低くする因子の概念が,「障害」である。「障がい」ではない。 「障害者」を評価テスト依存の概念として──よって「個の多様性」として──理解している者は,「障害者」のことばを使うのになんのためらいもない。
    逆に,「障害者」の「害」を絶対概念として文字通りに受け取る者が,「害」を「がい」に改めなければと思う。