Up | 大学の責任 | 作成: 2008-02-05 更新: 2008-02-05 |
高校は,大学生になるカラダのできていない者を大学受験生にする。 大学も,財布の事情から,大学生になるカラダのできていない者を競って採る。 「勉強に向かえない大学生」「本を読まない大学生」「考える力のない大学生」を「大学生」にしているのは,大学自身である。 したがって,学生についてあまり愚痴を言える立場ではない。 「勉強に向かえない大学生」「本を読まない大学生」「考える力のない大学生」は,いまや「大学」の大前提である。 「勉強に向かえない大学生」「本を読まない大学生」「考える力のない大学生」を大前提として大学がこれに合理的に対する形は,つぎの2通りである: 「カラダづくりをほとんどゼロから始める」は,しんどい取り組みであり,大学教員の個人的能力に大きく依存するものになる。 そこで,組織全体の取り組みとしては,「諦める──学生のカラダに大学の方が合わせていく」に向かうことになる。 「諦める──学生のカラダに大学の方が合わせていく」の方法は,つぎの2つを要素にする: トコロテン方式の手法には,つぎのものがある: 強調するが,「諦める──学生のカラダに大学の方が合わせていく」は,「合理的な方法」に類する。 (「カラダづくりをほとんどゼロから始める」とは,方向が正反対だが。) 実際,できない学生に対して授業内容の程度を落とすのは,合理的である。 勉強しなくても進級・卒業できることがアタリマエになっている学生に対して,「勉強しなくても進級・卒業できる」を継続してやることは,合理的である。 ちなみに,「合理的な考え方」の反対は,「間違った考え方」である。 「間違った考え方」がおもてに出てくることはあるのか?──ある。 例えば:
授業数を増やしても学生の勉強量は多くならない。ゆえに「間違った考え方」である。 この考え方は授業の意味・機能・効果をわかっていないために出てくるが,「改革」が素人主導でやられるときはたいていこの調子になる。
「諦める──学生のカラダに大学の方が合わせていく」は合理的な考え方だが,「大学の責任」問題を招くものになる。 すなわち,つぎの論が起こる:
勉強しないで単位が取れる授業を「大学の授業」としてよいのか? ちなみに,国立大学の「法人化」は,「諦める──学生のカラダに大学の方が合わせていく」と相性がよい。 このことを以下簡単に押さえておく。 国立大学の「法人化」は,国立大学がマネー一元化につくことを定めたものである。 マネー一元化で,「教育」は「客商売」と位置づけられる。 「法人化」では「生き残る」が最も気に入られることばになったが,「生き残る」の意味は「この客商売に成功する」である。 国立大学は,「客商売に成功」を「客の呼び込みに成功」に還元し,客を呼び込む方法を考える。 客を呼び込む方法は,「だれでも客にしてしまう」「客をよろこばせる」:
「客をよろこばせる」方法として,「学生のカラダに大学の方が合わせる」や「学生サポート(サービス)」をやる。 この傾向は,「大学のレジャーランド化」の批判も受けるが,「法人化」の方向としてはまったく正しい。 実際,「大学評価」の形で行政から褒められる内容になる。 しかし,このことで,学生はますます錯覚し,教員の方も知らず知らずに錯覚していく。 |