Up 大学の終焉 作成: 2021-06-17
更新: 2021-06-17


    今日,大学は何物でもない。
    大学教員は何物でもない。
    大学に対する「学問の府」のことばは死語であり,大学教員に対する「学者」のことばは死語である。


    大学には,国立大学と私立大学があった。
    今日は,この2つに違いはない。
    国立大学の意味は「国の交付金が多い大学」であり,「国の交付金が多い」のは,減らしたら破産してしまうことと,文科省利権が絡んでいることが理由であるに過ぎない。

    大学と私立大学は,もともと意味合いが違う。
    私立大学は,建学の精神が立てるものである。
    一方国立大学は,象徴的存在として「大学」である。


    ある存在を象徴的存在にしているものは,幻想である。
    化けの皮が剥がされるとき,その存在は何物でもなくなる。

    象徴的存在の方法は,「治外法権」である。
    思いっきり法外なものにすると,それは象徴的存在になる。
    法に従うばかりの大衆は,勝手にそこを聖域と思ってくれる。

    わたしが国立大学に入学した年の 1968年は,授業料が 12,000円 であった。
    月謝 1,000円である。
    大学は警察が入って来れないところであり,これは大学の敷地外の学生寮も同じであった。
    この<法外>は,「大学紛争」をきっかけに国が国立大学管理に方針転換したことで,一気に召し上げられる。
    国立大学は,法治の所になった。

    そしてとどめが,「国立大学の法人化」である。
    国立大学は,「国の財政的支援の大きい企業」の1つになった。
    教員は,営利企業社員として振る舞わねばならない者になり,自由に物を言えない者になった (言える物をもっているとしてだが)。


    大学のただもの化を大学人の質の劣化のように言うのは,違う。
    大衆から「学者様」と呼ばれていた時代の大学人も,頭の悪さの点ではいまと同じである。
    違っていたのは,<法外>の度合いである。

    ものを与えられることは,ただではない。
    <法外>も同じである。
    大学人の場合は,<無頼漢>を演じることが義務として生じる。
    たとえば「天皇現人神」の時代には「天皇機関説」を出さねばならないという義務が生じるのである。

    大学人は,自由人をパフォーマンスすることが必要条件である。
    大衆が大学人を「学者様」と呼んだ時代は,大学人が自由人であることを以て自分の上の存在と見立てた時代である。
    大学人が自由人をやらなく/やれなくなるとき,大学人は何物でもなくなる。


    これもまた1つの『裸の王様』の話である。
    化けの皮を着せられて王様にされる者は,つぎは化けの皮をはがされて只者にされる──という話でした。