大衆は権力に統制の強化を求め,権力はこれに応える。
個に体制への同調を求め不自由を強いてくるのは直接的には大衆であり,権力はむしろ大衆の行き過ぎを抑える立ち回りになる。
この図式は,つぎの図式と対立する:
自由は,この図式を立てる者と対立する。
わたしの世代なら,この場合よくもわるくも,吉本隆明を取り上げることになる。
吉本は,戦時中は愛国青年であったことに拘りをもつ。
戦後になって,知識人が社会主義の進歩派をパフォーマンスし,戦争時自分は反戦だったのようなことを言うのを見ることになり,知識人批判を開始する。
「おいおい嘘だろう」「いい気なもんだぜ」というわけである。
このとき吉本は,<知識人>に<大衆>を対置してしまった。
無理矢理であるが,吉本はこの無理矢理を自分に課した。
これは,吉本の意地といったものである。
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吉本隆明 (1964), pp.49,5
[鶴見の]この見解は,当然,ソ連や中共やアメリカが友であり,日本の大衆は敵であるということが,条件次第では可能であるという認識を含むものである。
わたしは,ソ連や中共やアメリカにどんな虚像ももたないことを代償として,日本の大衆は敵であるということが条件次第では可能であるという認識にたいしては,鶴見の断定に反対したい。 あるいは,あるはにかみをもって,沈黙したい。
インターナショナリズムにどんな虚像をももたないということを代償にしてわたしならば日本の大衆を絶対に敵としないという思想方法を編みだすだろうし,編みだそうとしてきた。
井の中の蛙は,井の外に虚像をもつかぎりは,井の中にあるが,井の外に虚像をもたなければ,井の中にあること自体が,井の外とつながっている,という方法を択びたいと思う。
これは誤りであるかもしれぬ,おれは世界の現実を鶴見ほど知らぬのかも知れぬ,という疑念が萌さなではないが,その疑念よりも,井の中の蛙でしかありえない,大衆それ自体の思想と生活の重量のほうが,すこしく重く感ぜられる。
生涯のうちに,じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし,離れようともしないで,どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し,死ぬというところに,大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば,これこそが,どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。
ここに「自立」主義の基盤がある。
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大衆に対する「どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し,死ぬ」は,吉本の虚像である。
意地から立てた虚像であるが,それにしてもこんな大衆論に自足していられたのは,やはりその資質があってのことである。
即ち,吉本は自由に不自由するタイプの者ではなかったわけである。
- 引用文献
- 吉本隆明 (1964) :「日本のナショナリズム」
吉本隆明[編]『現代日本思想大系4 : ナショナリズム』, 筑摩書房, 1964, pp.7-54
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