Up | 新時代の自由 : 要旨 | 作成: 2021-07-08 更新: 2021-07-08 |
しかしその全体主義は,ローカルな全体主義である。 グローバル世界の中のローカルである。 そしては外は,自由がそこからやってくるところである。 なぜ外は,自由がそこからやってくるところなのか。 外は,ローカルを相対化し否定するものだからである。 国は,グローバル世界に開いていかねば,保たない。 外に開くことで,自由を呼び込む。 そしてその自由に対し己の全体主義を守らねばならなくなる。 国は,ダブルバインドである。 新時代は,ローカルな全体主義がインターネットの自由に抗う時代である。 新時代の自由は,ローカルな全体主義とインターネットの自由の dialectic である。 インターネットはなぜそれほどのものなのか? 国がもともとそれほどのものではないからである。 国は幻想である。 国民も幻想である。 現実存在なのは,個である。 その個がインターネットを自己実現の場にすることは,国の幻想洗脳装置がスルーされるということなのである。 マスコミ (テレビ・新聞) がスルーされる 教師・学校がスルーされる。 議員選挙がスルーされる。 権威がスルーされる。 総じて,正義 (今日のことばでは「コンプライアンス」) がスルーされる。 曾てひとの自己実現は,国の正義システムから褒められることであった。 マスコミ (テレビ・新聞) に取り上げられる。 教師に褒められる,学校で表彰される。 議員に当選する。 権威の仲間入りを果たす。 しかしインターネットの時代は,これらはなにほどのものでもなくなる。 ひとの自己実現は,インターネットで褒められることである。 そしてこれは,大なり小なり,だれにも可能なことである。 よってひとは,インターネットを択る。 国民であることをスルーして,インターネット民になる。 そしてこれは,全体主義の不自由をスルーしてインターネットの自由を択るということである。 問題は,国の全体主義はひとのこのスルーをどこまで抑え込めるかである。 研究素材は,中国が己自身を以て提供してくれている。 大いに研究を興すべし。
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