Up ニヒリズムの快楽 plaisir 作成: 2021-06-25
更新: 2021-06-25


    ニヒリズムは,洗脳を取り払うことである。
    洗脳を取り払うとどうなるか。
    貧しい<意味>に替わって,豊かな<自然 presence>が現れる。


    先天盲が開眼手術を受けて,治る。
    豊かな自然 presence が目の前に開ける。
    ──とはならない。

    開眼者は,これからしばらくの期間,自然を見られる脳神経系を陶冶していかねばならない。
    眼は情報の入口に過ぎず,それを脳で解読してはじめて情報になる。
    開眼者が先ず見るのは,<四方八方ノイズばかり>である。
    これに絶望して自殺する者がいるという報告がある。

    洗脳を取り払うのも,これと同じ。
    勘違いして絶望し自殺する者も出てくる,というわけである。


    ニヒリズムは,開眼によって自然がだんだんと見えてくることを快楽 plaisir にする,というものである。
    自然がだんだんと見えてくるようにするものは,勉強である。
    よってニヒリズムは,勉強を快楽 plaisir にする,というものである。


    勘違いして絶望し自殺する者は,勉強が必要だということ,勉強は快楽 plaisir にすべきものだということ,実際勉強は快楽 plaisir になるということを,知らない者である。
    知らないのは,知らずに過ごしてきたということである。
    そしてこれには,学校教育が係わっている。

    勉強は本来快楽 plaisir だからするものなのだが,学校教育が勉強を苦役にしてしまった。
    学校教育が勉強を苦役にするのは,勉強が快楽 plaisir からするものであることを知らない者が教員になっているからである。
    そしてそのような教員がつくられるのは,社会が本来の勉強を封じる洗脳システムだからである。


    実際,洗脳を取り払うことができた者は,ひとに洗脳を気づかせる時節に巡り合った者である。
    それは社会が乱れる時節である。
    翻って安定期は,洗脳の安定期である。
    洗脳システムは,この時節に己の強化に努める。
    こうして社会は,強固なコンプライアンス体制になる。

    そしてこの体制を代表して表すのが,学校というわけである。


    「学校教育が勉強を苦役にする」の言い方に対する学校教員の反応は,定めし「そんなことはない,われわれは勉強を楽しくする工夫に日夜努めている」である。
    彼らは,授業をエンターテインメントにしようとする。
    子どもがよろこんでキャッキャ騒いでくれたら,彼らは満足である。

    彼らは,「快楽 plaisir」を「楽しい」に取り違えているのである。
    勉強の快楽は,これとはまったく正反対の様相──集中の様相──になる。
    自ずと<静かに内に籠もる>になる。
    そばにひとがいるのは,じゃまである。
    そばにひとがいるときは,知覚からシャットアウトする。
    教員が自分にやかましく迫ってくるなどは,はなしにならない。

    実際,教員は授業をいつも楽しくできるわけではない。
    そして楽しくできない授業で,彼らは勉強を苦役にする。
    勉強の快楽 plaisir を知らない者に,<教える>はできない。
    教え方の上手・下手は,そのあとの話である。