Up 「クグツ」との関係 作成: 2018-10-08
更新: 2018-10-08


       筒井功 (2012)
     pp.207,208.
    ①クグツという言葉は、古代から近世まで一貫して操り人形、人形操りと深くかかわっていた。
    ②平安時代後期のクグツは、男が狩猟のほか曲芸、人形まわし、奇術を、女が歌と音楽および売春を生業にしていた。
    ③「今昔物語集』によると、平安中期には男も歌、音楽を仕事にしていた。
    ④『塵袋』が書かれた鎌倉時代には、男は「殺生」、女は「遊君」で生きる集団だと受け取っている者がいた。
    ⑤鎌倉時代、伊予国には細工を暮らしの手段とするクグツがいた。
    ⑥『梅花無尽蔵』が書かれた室町時代、上州あたりにはクグツと聞けば、「梭師(おさし)」を連想する土地があった。
    ⑦『松屋筆記』によると、幕末の関東地方では、(おさ)を作る者をクグツと呼んで平民は賎視していた。

    すなわち、「クグツ」なる語は操り人形と最も密接に結びつき、かたわら曲芸、奇術、歌、音楽などの芸能および売春と深くかかわっていた。
    一方で狩猟・殺生をこととし、また細工とくに筬作りとも関連していたことになる。

    このようなつながりは決して、必然的に起きるものではない。
    例えば操り人形と狩猟、売春と筬作りなどは、どう考えても筋が違う生業である。
    それがクグツにあっては併存している。
    この異形の生態こそ、クグツの最大の特徴であり、これあるがゆえにサンカの系譜・起源をたどることも可能になるのである。

     pp.343-348.
    「クグツ」は外来語である。日本へは八世紀以前に、朝鮮から伝播した。この語の沿革は、さらに中国までさかのぼり得るが、その先ははっきりしない。ただ、中国西方の、いわゆる西域のどこかの語に由来する可能性があるとはいえる。

    この言葉は、元来は「操り人形」「人形操り」「人形遣い」を意味した。すなわち、職掌として人形を操る集団が渡来してきて、同時に言葉も持ち込まれたのである。それまでの日本にも、もちろん人形そのものはあった。「ヒトカタ」といっていた。これを操ることも行われていたようである。しかし、その技術は高いものではなく、新来の人形遣い集団には遠く及ばなかったろう。そのため、いわば従来とは異質の人形にかかわる言葉として、外来語をそのまま用いることになったと思われる。

    人形遣いの渡来者集団が、ほかにも歌舞音曲や曲芸、幻術などの芸能にも従っていたことは、まず間違いあるまい。当時の芸能は、まだ呪的行為の性格を強くもっており、彼らは巫者集団でもあった。古代社会では巫が娼を兼ねる現象が普遍的に見られたから、すでに売春も生業の一つになっていたろう。のちに『傀儡子記』が挙げている狩猟については、当初からの生業であったのかどうか判断できるだけの材料がない。 いずれであれ、そこに身を置く者は「百太夫」と呼ぶ、こけしのような人形を守り神としていた。

    彼らの一派が大分県の北部、宇佐市周辺に住みつき、八幡信仰と深く結びついていたことは確実である。「八幡(やはた)」の原義は「八旒(はちりゅう)の旗」だとするのが、ほほ定説になっている。八幡神は古くから託宣の神であり、巫者的性格が著しい。韓国ではいまも、ムーダンの家の前にはしばしば五旒の旗が立てられる。つまり五幡(いつはた)だが、この習俗と八幡神の名は深いところで通底しているのではないか。八幡信仰の発祥地となった宇佐官のあたりでは、今日なお「クグツ」という言葉が残り、それが操り人形を指しているのは決して偶然ではない。

    「クグツ」の語は 10 - 11世紀ごろには多くの地域で意味が変化し、『傀儡子記』が並べているような仕事で生きる者たちを指すようになっていた。そこには、すでに賤視・差別のひびきが込められていた。すなわち、賤民呼称の一つに変わったのである。ただしそれは、のちのように抜きさしならないほど厳しいものではなかった。

    彼らの中核となった集団の渡来は、おそらく五 - 七世紀が最も多かったろう。それからの数世紀間に、集団は徐々に変質・解体をつづけたに違いない。その結果、一部はいつのころにか「クグツ」の名も失ったはずである。その例として、遊女や白拍子を挙げることができる。

    しかし一方で、もとの集団と何らかの共通点をもつ被差別民たちが新たに、そう呼ばれることになる。その中に筬作りと巫者が含まれていたことには文献上の証拠がある。巫者と原初のクグツとの類似は、改めて述べるまでもない。だが、筬作りについてはどうか。

    筬を持ち歩く女性と呪的能力とのつながりを示す話は、第11章5節で紹介した。 つまり昔、筬は呪具としての性格をもつと考えられていたのである。これは、さらに古い時代、筬が織物の技法を一変させるような「魔法の道具」であったことによっている。しかも製作には高度の技術を要する。素人には決して作ることができなかった。この事実が筬かきに呪的能力者の位置を与え、それゆえのちには卑賤視させることになったのである。

    箕についても全く同じことがいえる。はきものでも作り方が難しく高価な雪駄(せった)や金剛ぞうりの製造が被差別民に限られ、農民は決して参入しなかったことも、おそらく似たような事情によっているに違いない。

    しかし高度の技術をもっ職能民は、筬かきや箕作りだけではなかった。鋳物師(いもじ)鍛冶(かじ)紺掻(こんかき) (藍染めの職人)、石工(いしく)番匠(ばんしょう)(今日の大工)、かわた (皮革職人)、弓作り、轆轤(ろくろ)師 (木地屋)、竹細工、鉱山師(やまし)薬師(くすし) (医者) ‥‥ 少なくとも何百種類もの職能民がいた。彼らの多くは律令時代には品部(しなべ)雑戸(ざっこ)として朝廷や豪族に隷属していたが、もちろん賤民ではなかった。それが古代政権のゆるみとともに庇護者を失い、各地へ散っていく。相前後して呪的能力者の零落が始まっていた。これも結局のところ、古代社会の崩壊の一環だといえるだろう。

    平安後期から鎌倉前期にかけてのころには巫者、芸能者、工人あるいはその二つ以上を兼ねる人びとへの賤視・差別が、ある集団にはすでに強く、ある集団にはまだ微弱に芽ばえていた。それは中世社会の深化にしたがい次第に強まっていった。背景には呪的能力者のいっそうの没落と、穢れ意識の肥大があった。室町時代になると、先に挙げたような職業者たちは、おしなべて社会的賤民とみなされていたのである。

    中世の巫者、芸能者、工人はだいたいは非定住であった。その後期は、彼らがもっとも闊達に移動・漂泊を繰り返していた時代であったろう。当時は社会がはげしく攪拌されており、あちこちを歩きまわる人びとが少なくなかった。歩き筋の全盛期ということになる。それは顧客を求めたり、鉱物資源などの富をさがしたり、まだ商人を兼ねていた工人たちが流通を支配したりするための旅であった。いつも移り歩いている者たちの戸口など把握できるものではなく、結局、政治権力の埒外にいるという意味で古代や近世の無籍者にひとしかった。室町時代ごろには、平安後期のクグツに似た非定住民は、たくさんいたと思われる。

    江戸時代になると、社会と身分の固定化が進んで、移動・漂泊の生活は、だんだん難しくなってくる。宗門(あらため)はキリシタン禁圧を目的に始まったにしても、その記録である「宗門帳 (人別帳)」は、のちには厳格な戸口把握の手段になっていた。そこからはずれること、すなわち「帳外(ちょうはず)れ」「帳外(ちょうがい)」は刑罰、行政罰の一種にも用いられ、もはや人間としての扱いを期待できないことを意味していた。

    かつての移動生活者たちも多くは定住生活に入り、人別帳に編入されていく。大量の道具を必要とする生業、資本の蓄積が欠かせない生業、大人数を組織しなければできない生業、軍事にかかわる生業、常に技術革新が起きていた生業、文字能力が必須の生業──などに結びついていた職能民は早い時期から、そのような道をえらんだことだろう。

    しかし、その流れに乗れなかった、あるいは乗らなかった集団もあった。わずかな用具だけで仕事ができ、しかも一人か一家族であっても作業にはたいして支障のないような職業の者たちである。もちろん彼らの中にも、古くから定住生活へ移る者は常にいた。一方で、さまざまな事情により、そこへ新たに流入する者がいて、集団としては昔ながらの生態が残ったのである。筬かき、箕作り、竹細工、川漁などで生きる人びとが、その例であった。時代が下るにしたがい、その生活ぶりは普通社会から大きくかけ離れたものとなり、まわりの定住民は特別の名で呼びつづける。テンバ、ミナオシ、ポン、オゲ、サンカ、ヒニン‥‥‥などは、それである。

    明治以後、メディアや研究者が彼らの総称として「サンカ」の語を使いはじめる。その意味でのサンカは元来、単一の集団ではない。いくつかの類似集団を指して呼んだ便宜上の名である。だから、その起源は、それぞれの職能民の発生に求めるほかない。

    だが、彼らには重要な共通点があった。中世の移動・漂泊民の暮らしを継承しているところである。それは、もっと古い時代、呪的能力者とみなされていた人びとの零落した姿だともいえる。古代のクグツも、そのような集団であり、サンカとクグツが部分的に似ているのは右の事情によっている。サンカとクグツは細く長い糸でつながっているのである。

    クグツも古代の先端技術者も、多くは朝鮮からの渡来人と、その子孫たちであった。この事実に加え、呪的能力者への恐れと尊敬が、やがて賤視・差別へと転化する現象が朝鮮でも起きたことが、クグツ・サンカと楊水尺や禾尺・才人、白丁との類似も生んだのである。

    中国やヨーロッパの賤民の種類と生態に、日本・朝鮮のそれとの共通性が見られるのも、根底に呪的能力者差別があったからだと思われる。

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  • 引用・参考文献
    • 筒井功 (2012) :『サンカの起源』, 河出書房新社, 2012.
    • 大江匡房『傀儡子記(かいらいしき)』, 1087

  • 参考Webサイト