Up 錦旗(きんき)炭鉱 作成: 2023-12-25
更新: 2024-01-15


       三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5., pp.11,12
    日石時代に入る前に「沼貝炭鉱」とほぼ同じ頃,この地に生れ,消えて行
    ったもう一つの炭鉱「錦旗炭鉱」がある。
    この炭鉱も世界大戦ブームに乗って浮かび出した小炭鉱の一つである。
    大正6 年,小樽市福永吉蔵が始めたという。
    一説によれば「錦旗」の名称は,同氏の持船 "錦旗丸" の名を取ってつけたものという。
    同7年3 月,小泉新一氏が鉱区の出願登録をしているので,実際の経営者は小泉氏で福永氏は最初の出資者であるかも知れない。
    鉱区は,現在7丁目先の水源地の沢 (7号の沢) 一帯で,約50万坪余. 現在でも上の貯水池の両岸附近にその坑口が見られる。
    選炭場 (手選程度の簡易なもの) は今のスキー場の小屋附近にあり. ここから運搬用軌道が6丁目上ー神社前ーグランド一三美商事本店横縦通りー青雲寮ー中学校西側道路を右折一野球場下一基地一美唄川ー駅とつけられ. 現在の美唄駅上り信号機のあたりにあった積込場まで馬搬した。
    積込用桟橋には一字当り方6尺の看板を立て "ここに錦旗炭鉱あり" と誇示していたと,大正8年ころ美唄駅を通過した人が語っている。
    8年ごろの規模は70人員人位で日産60t ほどであった。
    従業員住宅は,7棟か8棟の棟割り長屋が今の "本間の畑" 辺に建てられた。
    約50戸位はあったようで,ひところはなかなか景気がよく,公休などには親方連が美唄の芸者を総揚げしてハデにふるまったなどというが,10年頃にはすっかり資金繰りも行詰り,函館の相馬哲平氏に金融を仰いだ。
    しかし不況の嵐に抗しされず,遂に11年一切を相馬氏に差押えられ. 同9月には鉱区も相馬商会に書替えられ,事業は完全にストップした。
    相馬商会では再びこれを操業せず,財産管理のため川口直美氏 (美唄 "かめや" 食堂経営) を残
    しヤマを閉鎖したため,全員離散した。
    この鉱区も昭和12年12月三井鉱山が買収し今日に至っている。
    「錦旗炭坑」後日譚として. 昭和33年この地から野積みになった石炭120t のヤマが土を被り,上に草木もはえたまま発見された。


       『美唄市史』,1970. pp.476,477
    位置 南美唄町三井美唄七号の沢付近
    鉱区 採掘登録 第219号
    面積 509,947坪 (約170ha)
    鉱長 福永吉蔵 (大正7年ころ)
    小泉新一 (大正9年ころ)
    沿革 明治29年ころあった若山炭鉱の鉱区を大正6年8月,福永吉蔵が買収,7年3月,採掘に転願したもので,実際の経営者は小泉新ーであったらしい。
    ( I足跡」) 鉱名の錦旗は,福永の持船「錦旗丸」からとったものといわれている。 坑所から美唄駅付近の積込場まで馬搬軌道が敷設され,一時はたいへん景気がよかったものらしく,親方連中の遊びがはでで,当時美唄市街の話題となった。
    この炭鉱も第一次世界大戦後の不況でほかの中小炭鉱と同じ運命をたどり,10年ころから経営が悪化し11年には炭鉱のいっさいを函館の相馬哲平に差し押えられ,事業を休止した。
    相馬は,名儀を自分に書き替えたが炭鉱を再開せず,昭和12年12月,その鉱区を三井鉱山へ売却した。
    出炭量
     
    大正6年 600 t
    大正7年 2,775
    8年 10,511
    9年 12,486
    鉱員数 111名 (男88名 女23名)


1919年の地図
地図は,美唄市「行政資料室のページ」から引用



1933年の地図
地図は,美唄市「行政資料室のページ」から引用



三井美唄地区
『足跡』から引用