Up 掘削 作成: 2023-12-22
更新: 2024-02-18


    三井美唄炭鉱発起時
      『足跡 : 三井美唄35年史』, pp.66,67
      昭和3年8 月1 日は三井美唄始りの日であるが, それまでのヤマは, ポンプも捲揚げも全部蒸気だった。
      採炭にもドリルを使わず, 大工のクリックポールのように腹にあてオーガーをつけて手で廻した。
      運搬はへソ押し, 水流し,ユリコンベ, 半コロ, スラバコに分けたが, これを説明すると
        "へソ押" はV型トラフにあて篏る板にT字型に棒をつけてトラフの縁に両手をかけて,棒をへソのあたりに当てて,押していくのである。
        "水流し" は切羽に出てくる水を集めて, トラフに入れて流す方法である。
        "揺りコンベ" はシェーカコンベヤのようなもので,針金で吊り, 足をふんばってヨイサッ, ヨイサッとかけ声諸共人力で揺するのである。
        "半コロ" は廃車の4分の1位の大きさの木函に小さい車をつけてタル木をレール代りにして. その上にのせてひっぱっていく方法である。
        "スラバコ" は一寸傾斜のところで. 車では軽すぎ.V型トラフでは流れないところで使うもので,車輸の代りに滑り金をつかったものである。

        川島 (1933), p.894
      火藥 主としつ甲櫻グイナマイト及スペシヤルゼリグナイトを用ひ,夾炭層附近には二號硝安ダィナマナイトを使用せり、
      雷管は8號雷管、導火線は特A印緩撚導火線を用ひたり。
      支保 道坑掘鑿中は假留を施し、追切完成の部分に於て岩質軟弱の個所は坑木又は45瓩 (90lb.) 軌條を以つ支柱を施し、硬質岩の部分は之れをアーチ型に切拡め、セメントガシを用ひつ岩面にガンナイトを吹き付け,以つ風化を防止す、‥‥‥
      通氣 連延を入氣、本延を排氣とし,間隔200米毎に目抜を以て両者を連絡しつ通氣を計る、
      之が爲め,本延抗口に20HP 600立方米の吸出式シロツコ扇風機を据付け、又両引立には1HPバノブロァーを用ひ,局部的逼氣を行ひたり。
      軌條 本延、連延共に単線にして,
      軌間 610(ミリメートル)にして,
      軌條の大きさ,導坑掘鑿中には12瓩を用ひ,追切完成後は22瓩と敷替へたり。

        黒田 (1936), pp.522,523
       採炭様式は片磐向前進式長壁法で、片磐の間隔は従来100m を保って来たが,1切羽の出炭を増加するため最近新しい片磐は150mにした。
      2坑から採掘して居る中層群5番層には松岩が多く、容積で石炭との割合は30% に及ぶので,コールカッターを使用することが頗る困難であるから、止むを得ず鑿岩機とコールピックとを併用して手掘採炭を行って居るが、共他の1坑、3坑、4坑は殆んど全部機械採運炭である。
       ‥‥‥
      穿孔機は ‥‥‥
      爆薬は石炭にはチタ乙硝安グイナマイトの電気発破であるが,採炭切羽は極めて少量で、主に引立掘進に使って居る。
      岩石坑道の掘進は膠質ダイナマイト導火線発破で,‥‥‥

        同上, p.67
        昭和3年11月に電気の機械が入った。
        昭和4年の暮にデタチャプルチェーン (ダルマチェーン) が砂川から人.った。
        この取付けは現在なら3時間位でできるものを当時は1昼夜かかつてはめられたのである。
        これがヤマの機械化の始まりといってよい。
        それからコンプレッサー・ハンマー・カッターと機械化の歩みが始まった。
        コールカッタが入って来たのは昭和5年頃でアメリカさんがついてきた。
        サリバンの30馬力のC L E 2型というのである。
        この時は黒金文治さんがアメリカさんの後山として操作を習った。
        アメリカさんがカッターの上にのり "金てこ" 2本持って楽々と動かしている。
        代ってやって見てもテコでも動かなかったそうである。

      『美唄市百年史』, p.760 から引用:
      (1932年)


      美唄市「行政資料室のページ」から引用:
      昭和10年代


          『足跡 : 三井美唄35年史』, p.67
          この様な状態は終戟当時まで続いた。
          特に戦時中は精神力一点張りだから進歩はなかった。
          コンベアーなども不足で2段パネをやっていた。
          つまり機械の台数はふえたが,新しいものは何もなかったのである。
          進歩はなく昭和5年頃から終戦までは機械化の真空地帯だったともいえる。


          戦後
            『足跡 : 三井美唄35年史』, pp.67,68
            終戦後. 23年. 24頃までは労働運動はなやかなりし頃で, お互に技術進歩には致らなかったが. 24年暮頃から労使共に技術改善という面に重点を入れだし. 機械化採炭と云うことがクローズアップされて来た。
            同時に日本の炭鉱の条件はアメリカ式よりドイツ式に学ぶべきだという意見になり,最初に入って来たのがカッペ採炭である。
            これは当時大浜炭鉱でとり入れ研究中であったのを, 当所が全道に先がけてこのカッペと取組んだのである。
            本格的にやりだしたのは, 昭和25年7月1日である。
            当時10幾つも散在していた切羽を1ヶ年の間に6ケ所に集約し,オールカッペ化した。
            このカッペ採炭の開始と共に急速に機械化が行われたが, これは切羽無支柱が最大の原因だといわれる。
            この頃福山岬さんが考案した親子カッターがある。
            その後これを改良して, ダブルジブカッターとなった。
            これが三池製のダブルカッターの前身で, 日本のダブルジブ第1号機ともいえる。
            コールモビールドリルによる穿孔


            パンワアーコンベヤーとカッペ


            ダブルジブコールカッカーによる透截 (昭和30年代)


            ダブル・シブ・コール・カッター

              大森 (1968), pp.19,2-
            採炭法と採炭技術
            石炭の採掘はすべて長壁式カッペ採炭法を行い,
            切羽は前進式又は後退式を併用し,
            全切羽共コールカッターを使用し,
            透截後は電気ドリルを用い発破を行ってパンツァー,コンベヤーに積込み,
            更にベルトコンベヤーで坑内ポケット迄搬出し,
            此のポケットより炭車に積込んで電車によって坑外に搬出していた。
            又払跡はすべて無充填総バラシ法を採用していた。
            カッペ採炭は昭和25年7月より研究を開始し,約1年で散在せる小切羽を7切羽に集約し,全切羽をカッペ採炭にする事に成功した。
            同鉱のカッペ採炭は日本に於るカッペ採炭技能の先鞭をつけたものである。
            又コールカッターについても,ダブルジブ,又はべンドジブ,或はラーメンカッター,カッター・ローダ一等の使用を研究するなど,常に新式採炭技範の最先端を歩み技術の開発に努力していた。
            特に同鉱の薄層採炭技術は日本の石炭業界に於て常に指導的位置に立って来ていた。

              『足跡 : 三井美唄35年史』, pp.66
              当所は機械化のモデルマインとして. 全道でも全国でも屈指の炭鉱である。
              終戦後当所に入った機械は (S 28. 4現)
                米国ジョイ社のローダー2台,
                坑内トラックとも云えるシャトルカー2台,
                コール・モピル・ドリル.
                グッドマン製のコールカッター2台,
                三池製作所のローダー旧型4台,新型2台,
                カーローダー3台,
                家鴨の嘴のダックビル2台 等。

            美唄市「行政資料室のページ」から引用:
            昭和30年代


            坑内鉄柱カッペ作業 (昭和30年代)
            美唄市『写真で見る美唄の20世紀』, 2001 から引用: