Up 三井美唄炭鉱の「合理化」の形 作成: 2024-02-28
更新: 2024-02-29


    企業は,生まれ,そして死ぬ。
    生物と同じ。
    GAFA もいつか死ぬ。

    企業の<生きる>は,これまた生物の<生きる>と同じで,<生き残る>である。
    命が危なくなると,生き残る方法を択ろうとする。
    それが,「リストラ (合理化)」である。

    リストラの本丸は,人員削減 (解雇) である。
    GAFA なんかは,経営が傾くとバッサリ解雇をやる。

    日本の従来型企業は,バッサリ解雇ができない。
    日本とアメリカでは,「人間関係」の文化が違うのである。
    こうしてその企業は,経営が傾くとその度合を増すばかりとなる。
    日本経済は不況が長引くが,それはこの文化が理由である。


    三井美唄炭鉱の「合理化」も,<解雇>に及ばない「合理化」で終始した。
    もっとも,炭鉱は短命 (石炭をたちまち取り尽くして終わる) が定めであるから,「合理化」で息を吹き返すというものではない。
    <解雇>に及ばない「合理化」は,これはこれで良しということになる。


    三井美唄炭鉱の「人員削減」は,一つが「希望退職者募集」。
    これは,企業がもう終わっていることを企業の方から伝えることである。
    実際,希望退職者の数を増やす方法は,会社が絶望的であることを強力に演出すること。
    募集に応ずる者は,今退職する方が諸手当の面で有利と踏んで応募する。
    居残りを択る方も,「残れてよかった」とはならない格好になる。

    「人員削減」のもう一つは,「人員分散」。
    「分社化」である。
    「それぞれ独自にやってくれ」の数を稼ぎ,「閉山」で最終的に手当てする人数を減らすわけである。

大森五郎 (1968), p.19 から部分引用:
在籍労務者 (坑内・坑外) 数──職員数を含まず──の推移
1956年3,351人
19573,411
19583,419
19593,2644/6 三井鉱山第一次再建協定
19602,6744/23 三井鉱山第二次再建協定
19612,33910/12 美唄合理化協定
19621,804
19637/27 閉山

      大森 (1968), pp.26,27
      美噴炭鉱に於ける合理化
      (1) 新美唄鉱業所の合併。
      美唄鉱業所は,昭和26 (1951) 年8月三井鉱山株式会社企業整備の線に沿って,同社新美唄鉱業所を合併して第二坑と称した。
      其の時の第二坑在籍人員は職員143人,鉱員856人であった。

      (2) 朝鮮動乱終結に伴う企業整備。
      朝鮮動乱が終結して石炭事情悪化し炭値に相当の低落が見込まれたので,三井鉱山株式会社は昭和28 (1953) 年大量の人員減を伴う企業整備を計画し,是に伴って同炭鉱は第二坑の閉鎖と人員縮減の合理化案を策定した。
      此の合理化計画は三井鉱山労働組合113日の長期に亘る闘争を引起したが,同年11月27日同社労働組合連合会である三鉱連との間に協定調印の運びとなり,同社が同年8月30日一方的に行った退職勧告は白紙に戻し,同年12月14日より28日迄新たに希望退職を三井鉱山株式会社傘下の全鉱業所に於て募集する事になった。
      同炭鉱に於ても指名解雇者中437人が復職して就業した。
      次いで上記の希望退職募集期間中に応募した者は 230人に達し,先に退職勧告に応じて退職した171人,その他自発的意思によってやめた者 27人を加えると計 428人になったのである。

      (3) 第二坑閉鎖。
      次いで第二坑を閉鎖する事になり昭和29年3月末を以って第二坑在籍者608人を第一坑に引取った。
      但しそれらの住宅,病院,配給所 (生活物資の販売店),映画館等の福利設備はそのまま第二坑区域の東明地区に存続した。

      (4) 三井鉱山第一次再建協定による合理化。
      昭和34 (1959) 年4月6日,三井鉱山株式会社再建について会社,組合団体交渉の結果,
        (a) 希望退職募集
        (b) 福利関係
          (イ) 福利関係起業工事は当分の間延期,
          (ロ) 営繕工事費枠の設定,
          (ハ) 文化体育娯楽費枠の設定
          (ニ) 鉱業学校新規募集中止
      を協定した。

      (5) 三井鉱山第二次再建協定による合理化。
      第一次再建協定に於ける希望退職者数は三井鉱山全鉱業所に於ても所期の目標に達せず,又他の協定事項についても完全実施に至らず合理化の実が上らなかった為め,会社,組合団体交渉の結果昭和35 (1960) 年4月23日第二次再建協定を結び,同炭鉱は次の項自の実施を組合と取り決めた。
        (a) 希望退職の募集
        (b) 人員関係
          (イ) 入替採用廃止
          (ロ) 鉱業学校卒業生の採用延期 (2ヶ年間)
        (c) 賃金関係
          (イ) 超過労働規正 (早出1人1日当33分,公休出勤1日当598人),
          (ロ) 特殊労働賃金の合理化
          (ハ) 請負作業に対する固定部分設置
          (ニ) 公傷患者特別救済の会社10%補助等の廃止,
        (d) 福祉関係
          (イ) 永年勤続表彰の中止,
          (ロ) 薬価免除限度額1人1ヶ月1,500円とする (従来1世帯,800円),
        (e) 配給所を分離して三美商事株式会社とする,
        (f) 東明地区の整理
          同炭鉱直轄である東明総合病院,映画館,集会所を廃止する,
        (g) 請負給者の賃金合理化,逆算方式補給の廃止,標準外作業中切羽内作業の標作内折込,標作委員会の設置,補障制度の適正化,休憩の買上制度及び時間労働の場合の詰負給部分に対する時間割賃金の廃止,
        (h) 坊内4交替制を3交替制に切替える,
        (i) 機電課所属の鋳物工場の外注切替,
        (j) 坑外繰込実施。

      (6) 美唄合理化協定による合理化。
      第一次,第二次再建協定の実施後も同炭鉱の収支は依然として好転せず,再度会社は組合と団体交渉の結果次の項目について合理化協定を締結した。
        (a) 希望退職募集,
        (b) 部内及び切羽集約
          従来3部内6切羽であったのを2部内4切羽にする。
        (c) 三美鉱業株式会社の設立
          同炭鉱々区内に採炭を目的とする子会社を設立し同炭鉱々員を採用する。
        (d) 坑外職場を分離して新会社の設立をする。
          (イ) 株式会社三美製作所を設立し (37年4月1日発足),同炭鉱機電課直轄の機械,鉄車,鉄柱,電気の各工場を分離,上記新設子会社に附属させる。
          (ロ) 三美運輸株式会社を設立し (37年4月1日発足),同炭鉱炭務課の運輸,硬捨部門を分離して上記新設子会社に附属させる。
          (ハ) 三美建設株式会社を設立し (37年4月1日発足),同炭鉱土建課直轄の建築,水道各工場を分離して上記の子会社に附属させる。
          (ニ) 同じく土建課直轄の製材工場を三井鉱山株式会社の子会社三鉱木材株式会社に移譲する。(37年4月1日移譲完了した)。

      設備の改善,機械並に新技街導入による企業合理化
      以上の如く同炭鉱は稼行炭層の炭質並に品位低下,労務費,経費の高騰による原価高と,益々増大してゆく炭況悪化に対して,各面の合理化を実施し設備の改善,機械並に新技術の導入による高能率によって企業経営の危機の脱出に努めて来ていたが,是らに対する設備投資の総額は昭和36年度末迄に13樟円に達していた。

      合理化完成後に於ける美唄炭鉱収支見透し
      上述の如き合理化を完成した後の予想せられた同炭鉱収支の見透しは第20表に示す通りであった。
      即ち出炭については39年迄は60万屯台であったが,40年度以降は集約した全払が薄層となるため,60万屯を維持する事が困難となり漸次出炭が減少した。
      能率は38 (1963) 年度 37.4屯/人を最高として漸次低下し 42 (1967) 年度には 29.8屯/人となっていた。
      又原価は,合理化完成の目標年度の38 (1963) 年度は3,137円/屯を最低として上昇し,全切羽が薄層に入った40年度に於ては3,662円/屯,42年に於ては4,341円/屯となる見込であった。
      一方手取は39年度迄 2,800円/屯内外を保持出来るが,其の後は低落して42年度には 2,529月/屯となる事が予想されていた。
      純損益予想は 38,39年度は2億円台の赤字であったが,40年には485百万円,42年度には 778百万円の膨大な赤字となることになっていた。
      斯くして数次に亘る合理北を実施し,殆ゆる手段を尽くして経営の改善を図ったが,断層の出現,玉石の増加,炭層の薄層化,炭質の低下等の自然条件の悪化と炭況の不振とは,同炭鉱の前途に決して明るい見透しを呈しなかったのである。