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白戸仁康(監修)『目で見る 岩見沢・南空知の100年』, 郷土出版社 , 2004
美唄川支流一ノ沢流域の炭鉱開発をめざし,徳田與三郎が元美唄炭鉱を開く。
明治40(1907)年に 20人余の坑夫で開鉱したが,同42年に資金難などで挫折して美唄川上流に転じる。 同鉱区には,大正4年,沼貝炭鉱が進出した。
元美唄炭鉱事務所 (1906年)
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『美唄市史』,1970. p.441-
いまだ鉄道もなく道路も完全でない明治22年(1889)の夏,徳田與三郎は美唄の奥地を踏み分けて,炭田の調査を行なった。
かれは,明治25(1892)年「鉱業条例」の改正と同時に美唄の鉱区の大半を占有したといわれる。
実際,明治27(1894)年ころ,ーの沢方面の試掘を行なっているが,資金不足や運炭手段と売炭機関の不備のため,休山やむをえない状態であった。
その後,かれが所有した鉱区はしだいに四散し,他の手に移り,残った鉱区で再三にわたり事業の再挙を図ったが,そのつど,辛苦をなめ失敗に終わっている。
徳田の炭鉱経営が軌道にのったのは鉄道国有化と美唄鉄道の開通からであった。
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