Up 若山炭鉱 作成: 2024-01-20
更新: 2024-01-21


      『美唄市百年史』, p.360
     試掘権を得て開坑し、どうにか稼行にこぎつけたのは若狭千代吉と山田宅之助で、明治二九 (1896) 年のことであった。
    七号沢上流山麓から丘陵地一帯に三鉱区二五O万坪の試掘権を設定し、沢沿いに坑口を開き、そこから上川道路 (現国道一二号線、美唄自動車学校付近) まで一四八O間の馬車木道を敷設した。
    両人の名をとって若山炭鉱と呼称し、小規模な採掘を行って農家の燃料用などにあてられたが、屯田兵用地を縦断する木道敷設用地確保のいきさつは不明である。
    明治三二 (1899) 年には一八三六トンを採掘したが、販売高は半分の九一八トン (『北海道庁第十四回拓殖年報』) にとどまって行きづまり、鉱区は徳田の場合と同様、小樽の海運業者や地方政治家の手に移っていった。

同上, p.361 (「七号沢美唄炭山図」部分) :


同上, p.237 (「沼貝村全圖」部分) :