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『美唄市百年史』, p.360
試掘権を得て開坑し、どうにか稼行にこぎつけたのは若狭千代吉と山田宅之助で、明治二九 (1896) 年のことであった。
七号沢上流山麓から丘陵地一帯に三鉱区二五O万坪の試掘権を設定し、沢沿いに坑口を開き、そこから上川道路 (現国道一二号線、美唄自動車学校付近) まで一四八O間の馬車木道を敷設した。
両人の名をとって若山炭鉱と呼称し、小規模な採掘を行って農家の燃料用などにあてられたが、屯田兵用地を縦断する木道敷設用地確保のいきさつは不明である。
明治三二 (1899) 年には一八三六トンを採掘したが、販売高は半分の九一八トン (『北海道庁第十四回拓殖年報』) にとどまって行きづまり、鉱区は徳田の場合と同様、小樽の海運業者や地方政治家の手に移っていった。
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