Up | 本テクストの歴史記述スタイル | 作成: 2024-01-27 更新: 2024-01-27 |
これは,論文や書籍では実現できないものである。 論文や書籍は,<頁を連ねる>式なので,シークェンシャルにテクストを編むしかない。 そこで自ずと時間のシークェンスを用いることになり,<編年体>が歴史の書き方になるわけである。 一方<ホームページ>は,ハイパーテクストを実現できる。 そこで,<紀伝体のライブラリ>の形に歴史を書くことができる。 体裁は,<事典>である, 本テクストは,<テクスト・画像を引用して配する>式でつくる。 理由は単純で,これ以上のことはできないからである。 そして,「これ以上のことはできない」ということで,この方法を徹底させることにする。 もっとも,これには,<反オリジナリティを立場として打ち出す>の意味合いもある。 ひとは,表現する。 表現は,ひとにとって自然な行為である。 しかし表現を生業とする者は,表現で金を得るために「オリジナリティ」イデオロギーをつくり,そしてひとをオリジナリティ信仰へと洗脳しようとする。 オリジナリティなんてものはない。 表現は,遺産の継承である。 「オリジナリティ」イデオロギーは,「表現」の意味を歪める。 ひとはなぜ表現するか? これは,生物の<自分の遺伝子を遺す>の変種である。 だから表現は,コピーされてナンボなのである。 ネットでは,AI 企業がビッグデータを求めて,ウェブコンテンツを漁っている。 このコンテンツは,AI の知能になる。 新聞は「著作権保護」を立て,ウェブコンテンツ漁りに規制をかけることを正義にしようと,躍起である。 しかし表現者なら,自分の遺伝子が AI の中に入っていくことは,むしろ歓迎することなのである。 引用は,引用元を明記することになる。 これについて勘違いせぬよう。 引用元を明記するのは,「著作権」を信じるからではない。 引用元の明記は,「本テクストはフェイクではない」の主張である。 引用元の明記は,自分のテクストにクレジットを与える方法なのである。 引用元を明記するのは,引用元のためではなく,自分のためなのである。 |