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『美唄市百年史』, pp.1028--1030
外国人労働者などの退山と戦後の増産体制にともなって、新しい労働力を受け入れるためにとられた対策の一つとして、大規模な炭鉱住宅の新・改築が行われた。
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[三井新美唄鉱 (→1951年 三井美唄鉱第二坑) の炭住街が 1948年から現東明町に進出──新築住宅が軒を連ねはじめた]
新美唄炭鉱の炭住はもともと現盤の沢町に集中していたが、近くに三菱美唄鉱の発電所があり、さらに戦時中に開かれた滝ノ沢坑の本格的採掘にともない、狭い谷合いはすでに飽和状態となっていたため、三井新美唄鉱では新築先を東明および落合町地区に求めていたのである。
畑作中心ののどかな農村地域であった両地区は、たちまち三菱・三井が入りまじる大炭住街に変容し、23年には美唄鉄道線に東明駅が出現、かつて静かな農村時代には東明と書いて「しののめ」と呼んでいた一帯は、「とうめい」と呼ばれるようになった。
美唄川左岸高台の三井美唄炭鉱でも、21 (1946) 年秋から24年にかけて848戸の炭住を新築し、24年末には新旧合わせて3052戸の大集落に膨張した。
そのために近隣の農地を買収して住宅地を広げたほか、古い住宅を取り壊して第二・第三・第五・第六アパート、青雲・共愛・白樺・芙蓉などの独身寮の新改築にあてたが、それでも足りず、ついに美唄川を渡って三井田園町という住宅街を誕生させた。
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