Up 戦時下の外国人徴用 作成: 2023-12-26
更新: 2024-01-22


      『美唄市史』,1970. pp.455-460
     日華事変の拡大は,多数の熟練労働者の応召者を出す一方,労働力は軍需工場の労務者優先主義のため,吸収されていったので,労働力の不足をきたし,生産能率の低下をもたらした。
     ‥‥‥
    昭和13年4月,「国家総動員令」が公布され,これに基づき,「学校卒業者使用制限令」(13.8),「工場事業場技能者養成法」(14. 3),「従業員雇入制限令」,「(同)青少年雇入制限令」(15.12),「従業員移動防止令」(15.11) などあいついで発動された。 ,
     このように強力な行政措置を講じたのにもかかわらず,労働力の不足は,依然 として解決できなかった。
    この打開策が,朝鮮人労働者の移入であった。
     ‥‥‥
     昭和14年にはいると,労働力の不足が生産を大きく阻害するようになったため,10月には三菱美唄炭砿 659名,三井美唄炭鉱 197名,翌年,三菱1,121名,三井590名とおおぜいの朝鮮人労働者が入山し,美唄のマチは,にわかに朝鮮服が目だつようになった。
     ‥‥‥
     太平洋戦争のぼっ発により,高度国防生産力の支柱たる石炭の増産はいよいよ急を告げ,労働力はもはや質的向上を顧みる余裕はなくなり,量的動員時代へと移行していった。
     ‥‥‥
    昭和19年2月 ‥‥‥ すでにこのころ,国内の労働力はもとより朝鮮人労働力もようやく底をつき,華人俘虜の使用のやむなきにいたった。
    7月になって,華人が三菱と三井のヤマにはいってきた。 ,
     三井美唄炭鉱は事務所の奥の谷間に急造の宿舎を建て,総数約1,200名を収容した。
    待遇は人間なみに扱われなかった。
    特に,食事は量も少なく,栄養も満足にとれない状態であったので,ほとんどが骸骨のようにやせて,体力はすでに限界を示し,十分な作業はできなかった。
    この三井美唄炭鉱華人寮で発生した悪質な伝染病は,町民を恐怖のどん底におとしいれ,
    一時は本町と三井美唄の交通がしゃ断され騒然たるものがあった。 ,
     華人の入山から数か月遅れて函館その他に分駐していた白人俘虜が,労働者不足の補充に来山した。
    美唄では三井美唄に配属になり,南側の山麓に板固いした宿舎を急造し,約1,000名を収容した。
    そして,三井美唄は白人俘虜の収容本部となり,総指揮官に古賀大佐が着任した。
    かれらは,坑内外の比較的軽い労働に従事したといわれる。
     ‥‥‥
     昭和19年10月,朝鮮人労働者の中でも優秀な先山が一時帰国し,さらに熟練した勤労報国隊の満期帰還により,出炭は急激に減少していった。
    すでに生産に欠くべからざる火薬等も不足し,物資不足,食糧不足等もいよいよ深刻化し,ヤマの生活不安はつのるばかりであった。
     ‥‥‥
    炭鉱は,戦時中増産至上主義により出炭が強行されたために,坑内が荒廃していった。
    他方,炭鉱労働者も終戦時には坑内労働者の約半数までが朝鮮人やその他の外国人労働者によって占められる状態であった。

同上. p.674
美唄2炭鉱坑内外別国籍別労働者数 (各年6月現在)
区分 1944年 1945年
 日本人   朝鮮人   日本人   朝鮮人 
三菱美唄砿  坑内  2,459 2,216 2,130 2,538
 坑外  2,092 93 2,311 279
4,551 2,309 4,441 2,817
三井美唄鉱  坑内  1,226 1,521 1,294 1,507
 坑外  896 126 1,004 134
2,112 1,647 2,298 1,641
(『北海道炭鉱統計資料集成』から)


    朝鮮人労働者
      同上. pp.673-675
     朝鮮は,明治43年,日本に併合されて以来昭和20 年の終戦まで,日本の統治下にあったため,多くの人たちが日本本土に移住して生活するようになった。
     日華事変が起こり,次いで太平洋戦争がし烈化するにつれて,国内の労働力が不足し,炭鉱においても当然この影響を受けた。このため農漁村の余った労働力を炭鉱に振り向けたりしたが,問題解決にはならなかった。
     そこで,その打開策として,兵役の義務がなかった朝鮮人の本土移入が行なわれ,戦争の推移にしたがって,次の方法がとられた。
    昭和14年から16年までは,会社専属の募集員を朝鮮の現地に派遣して直接募集を行ない,昭和17 年からは,日本政府の指示で設置された朝鮮総督府内の労務協会が主体となって,官あっ旋の形で割当て募集が行なわれた。
    しかし,労働力の充足はいぜんとして目標に達しなかったため,政府は昭和19 年9 月,徴用制を施行して,強制的に日本本土へ移送するようになった。
     美唄でも三菱美唄砿や,三井美唄鉱などへ送り込まれ,日本人従業員指導の下で就労した。
     終戦の昭和20 年には,三菱美唄砿で日本人坑内労務者2,130 名に対して,朝鮮人労務者は2,538 名に及び,三井美唄鉱でも朝鮮人労務者のほうが200 名も上回っていた。
     これら朝鮮人労務者の待遇は,以前から炭鉱に住みつき妻帯している者は,直轄の日本人労務者と同様であって,その数も多かった。
    徴用によって来た者は,寄宿舎生活をして,労働に従事していた。
     なかには「たこ部屋」と称する下請けの組夫として重労働が課せられるなど酷使された者もいた。  [ 土木部屋 (「たこ部屋」) ]
     坑内作業については,五人の槌組中二人は日本人,三人は朝鮮人であった。
    かれらの仕事は最初のうちは坑内労働の不慣れから能率が悪かった。
    しかし,日がたつにつれ日本人先山とも人間的に親しくなり,技術も向上してくると能率もしだいに上がった。
    寄宿舎にいる独身者は,行動が比較的自由であった。
    しかし,徴用の労働者は拘束された状態の下で、強制労働がしいられ,中にはその酷使に耐えかねて逃走した者もいたといわれている。
     いちおう募集契約期間を終えた者は,自由を保障されていたが,使用者側では労働力の減少を防止するため,優遇措置を講じてその定着に努めた。
     終戦後は,大半の者が故国にもどったが,現在もなお日本に定住している人たちも少なくない。
    こうした朝鮮人労働者が,終戦までわが国の生産増強のため,その第一線で就労した業績は特筆されるべきものがある。

『美唄市百年史』, p.789 から引用:
三菱美唄炭鉱に入山した朝鮮人労働者 (1939)


『美唄市百年史』, p.791 から引用:
三菱美唄炭鉱自啓寮の朝鮮人労働者 (1941)


    中国人労働者
      同上. p.675
     太平洋戦争がし烈になるにつれて,国内の労働人口が減り,これを補うために朝鮮人や中国人を国内産業に向けた。
     中国人については,昭和17年11月27日「華人労務者内地移入ニ関スル件」の閣議決定や,昭和19年2月28日の次官会議における「華人労務者内地移入促進ニ関スル件」の決定に基づいて移入が行なわれた。
     移入のための募集は,中国行政機関を介する方法,中国人俘虜帰順兵を当てる方法,その他自由募集による方法等がとられた。
     これら中国人の受渡しについては,華北労工協会等の労務統制機関の手を経た者については,日本の各事業場との間に契約が結ばれていた。
     募集に応じたこれらの中国人は日本への乗船地である青島(ちんたお)塘沽(とうこ)等の収容所に集結し,そこから日本国内各地へ送られてきた。
    美唄では昭和19年に三菱美唄,三井美唄の両鉱にそれぞれ送り込まれ,採炭,掘進等の坑内労働に従事した。
     労働条件や生活条件は,最も激化した戦時体制化に直面していたときであり,きわめてきびしいものであった。
    終戦と同時にかれらは,さっそく待遇改善を要求したり,暴動事件も発生している。
     特に暴動の拡大を防止するため,会社をはじめとする関係当局は,その取扱いに苦慮したが,心配された大事件も起こらず,美唄からは昭和20年末までに全員が送還された。


      同上. p.460
    終戦と同時に,これら外国人労働者は長い間のうっぷんを爆発させて現場を放棄し,不法事件が続発したため,一時混乱状態を生じ,炭鉱の治安は著しく悪化した。
     ‥‥‥
    終戦と同時に,中国人労働者のほう起でヤマの沈黙は破られた。 ,
     この中国人,朝鮮人労働者の暴動による無警察状態は8月,9月と続き,社宅・寮・職場・配給所などを襲い暴行,住宅侵入,食糧の強奪を行ない,とくに労務係員,現場係員に対する恨みから報復事件を随所にひき起こした。 ,
     かれらの本国への送還は,10月下旬から開始され,12月の上旬に完了し,炭鉱は平静を取りもどした。

      同上. pp.129,130
     終戦と同時に三井,三菱の両炭鉱で強制労働させられていた中国人,朝鮮人労働者はいっせいにほう起して,マチの沈黙が破られた。
    かれらは徒党を組んで配給所や商店を白昼堂々と襲い,食料品や衣類を手当たりしだいに強奪し,さらに市街の商店街に乱入し,腕時計・万年筆・眼鏡などを略奪した。 ,
     こんな状態が8 月,9 月と続き,市内は一時無秩序状態となったが,かれらも衣食に満ちたりてくるとだんだん安定を取りもどし,しだいに秩序だった行動をとるようになってきた。
    そして,白米1日6合 (0.9 kg) と肉食による栄養で10月ころには,別人と見違えるほど丸々と太り,年末までの間に帰還していった。


    連合軍俘虜
      三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5. pp.116-118
    斯する間に在山日本人は出征で益々不足を告げるに至り,残留日本人は老令者か弱体者が大部分で約千人程度となった。
    之を補うに鮮人募集に奔走した第二期の情勢に移向したのである。
    鮮人募集も漸く底をつき支那人俘虜を割当られた。
    彼等の宿舎は事務所奥の谷間に板囲して急造され,労務職員が管視の任に当った。
    彼等の総数約1200人に達した。
    斯する内に戦局益々不利になるに伴い,函館其他に分駐してあった外人俘虜を各炭鉱に分割収容させ旁々労務者不足の補充に当てる事となり,急きょ炭鉱南側の山麓に板囲した宿舎を急造して約千人以上を収量した。
    美唄炭鉱は外人俘虜収容の本部となり,総指揮者として古賀大佐(彼は故陸軍元帥杉山元大将の 陸士時代の同期生であると云っていた後備将校であった) が着任しクラブにとまる事となった。
    彼は古武士的な老人で,俘虜を遇するに所調日本武士道的温情にて彼等に接した。
    此事は後日敗戦後非常に好結果をもたらした。
    私の方針も大佐の方針にならって決して残酷な取扱いせぬよう指示し実行した。
    以上のような労務者の構成となったため,之を指導する先山日本人労務者及職員の苦労は大変だった。
     ‥‥‥
    終戦直後から毎日のように外人飛行機が収容所の上空を旋回し,威圧をかね同僚に食糧其他の物質を投下した。
    2日程経って完全武装した占領軍少尉1下士4名(後2 名) がジープで乗込んで来た。
    そしてクラブを宿舎とし,之を本部とした。
    炭鉱の経営は全く半身不随の状態となったが. 残存日本人のみにより保安維持と局部に縮小して無理なきよう細々と生産を続ける外なかった。
    斯る情勢となり先づ之等戦勝国民の取扱いが大問題となった。 管督局美唄町始め附近の村落並に警察署の応援の下に衣料食糧の調達に奔走したが,彼等の旺盛なる肉食欲を充たすにはー苦労だった。
    一方外人収容所の調査が始められた。
    収容所設備. 食事其他日常の取扱振り等々詳細な聴取りを行い,壁其他諸処に書かれた落書き等全部撮影して虚偽行為の有無に対する証拠蒐めに厳重を極めた。
    此処に於て前述した古賀大佐の性格及之にならった私共の彼等に接した処遇態度方針が非常に好結果をもたらし,後日何等の責もなく済んだ事は幸であった。

『美唄市百年史』, p.806 から引用:
三井美唄炭鉱に連行された函館捕虜収容所の連合軍捕虜 (1945)