Up 飯場・友子制度 作成: 2023-12-25
更新: 2024-01-25


      『美唄市史』,1970. pp.120,121
     当時の採炭労働は, 飯場制度によって行なわれ, 飯場制度は友子制度によってささえられており,飯場頭は普通,友子の親分でもあった。
    そして,労働者を募集して,生活の面倒をみることになっているが,反面,賃金のピンハネや食費, 生活必需品の不当な高
    値販売を行なうなどの中間搾取が常識となっていた。
    こうした弊害はやがて批判をまねき,しだいに会社の直轄制度に改められるようになってきた。
     また,当時鉱夫の生活は家財道具というものもなく, 転々とヤマを変え,「飲んで食ってチョン」といった生活が多かった。


美唄市『写真で見る美唄の20世紀』, 2001 から引用:
三菱美唄炭鉱朝鮮人飯場 (1918年)


      『美唄市百年史』,p.399
     三菱美唄炭鉱では大正8 (1919) 年12月、従来の指定飯場のうち、林 (我路ノ沢)、嶋作 (九番層)、谷川 (宮ノ下高台) 、進藤 (宮ノ下) の四カ所を「指定寄宿所」と改称し、飯場頭は世話方と呼ばれるようになった。
    だが左合藤三郎によれば、ほかに同年現在で私設寄宿所がなお12カ所あったという。 同炭鉱で飯場制度が廃止され直轄寄宿所に改められるのは昭和5 (1930) 年9月になってからであった。
同上,p.121
三菱美唄炭砿指定寄宿所 (飯場) (1922年)


同上,p.395
三菱美唄炭砿指定寄宿所 (飯場) (1928年)



      『足跡 : 三井美唄35年史』, 1964.5. pp.20-24
    く友子について〉
    1. 友子のおこり
    友子の発生地は駿州日蔭沢,徳川と真田が戦をした時分に逃げてきた徳川をかくまってくれた坑夫の恩に感じて,徳川lから赤ぎや1本を許してくれたのが始まりとだいう1説 (山形の板谷鉱山での話)
    昔,徳川家康が真田幸村に追われて佐渡の金山に逃げ込んだ時,坑夫頭の明石明五郎が助けてやった。そのお礼に家康から本多中務を通して 53ケ条の墨付を賜り. 苗字帯刀を許されたのが始りだという1説(幌内明治41年頃の話)
    又,一説には徳川家康が真田幸村に追われて. 駿州日蔭沢のある鉱山に逃げ込んだ所. 徳永半兵衛という男がかくまって,幸村の厳重な捜索からかくし通した。
    そこで恩に感じた家康が半兵衛の望みによって野武士の名を許し,大小1本を与えた。
    これが友子の始まりだと云う。(幌内での話)
    友子には渡り坑夫と自坑夫の2つがある。
    これについてはあまりはっきりしないが,昔同盟ストのようなものがあった時,半分は今の会社側についたが半分は反対して負け,そこにいれなくなって奥州に逃げた。
    この逃げた方が渡り坑夫,前の残った方が自坑夫だという説と,日蔭沢でストのようなものがあったとき徳永半兵衛についたのが3人いて,それが自坑夫,その他が渡り坑夫の始まりだともいわれてしる。
    これらのことを見ると,ずっと同じところで坑夫をしていたのを自坑夫,他から渡ってきたのを渡り坑夫といったのだろう。
    2 友子の起ったわけ。
    友子は,一つの救済機関で,鉱山で働く坑夫の相互扶助を目的としていたようだ。
    もとは健康保険のようなものがなかったので,お互に困った時、病気や怪我の時,助け合おうということから発達した。
    そしてこの友子にみんな入ったのは以上の理由からと. もう一つは飯場における生活からであった。
    友子に入らない, つまり親分をもたないのを村方といった。
    飯場に行けば「親分をお持ちですか」と聞かれる。
    村方だといえばみじめな自にあう。
    それがいやで必ず入ったようである。
    3 組織と財政
    明治40年に岐阜に鉱夫同盟連合会ができた。
    そこで交際費といって一定額を納めた。
    又青森縣の三本木にも大正8年頃連合会事務所ができ.同じ年に幌内にもこれができた。
    しかし問題は金だから,段々人数を少く報告するようになり,次第に衰えていった。
    又同盟ができてから友子の立場が悪くなったこともある。
    それは怪我をして働けなくなった者が奉願帳をもって各鉱山を廻りながら. なにがしかの金をもらって歩けたのができなくなったことにもある。
    幌内の友子のきまりとして. 病気のための休み1ヶ月以上になると1円,2ヶ月以上になると2円といったふうにして,5ヶ月以上は5円の見舞金をおくった。
    6ヶ月以上になると山内で寄付帳によって別に金を集めた。
    全く働けない者は奉願I帳を作り各鉱山に廻した。
    本人が一緒に廻れない時は. 送り奉願帳によって当番が隣山へ届けるようにした。
    奉願帳をもって廻る場合.先方の山に子分がいたり.弟分がいたりすると万事都合がよかった。
    金も集るし, その家にも泊れた。
    先の連合会ができてからは,各鉱山を廻らなくなったので. 友子制度はあまりうまくいかなくなった原因にもなったようだ。
    友子の見舞金, その他の金のやりくりは,交際金といって毎月皆から集めていた。
    これは毎月一定しないもので,実際かかった金額を取立てる。
    ただ老補役といって, 友子に入ってから30年以上たった人からは特別待遇で徴収しない。
    この人は今の会計監査と似たような仕事をしていた。
    集金は, 当番とか,区長と呼ばれる人がする。
    支出する範囲は,病気怪我の見舞金,不幸などの弔慰金,一宿一飯のわらじ銭,その他同盟連合会費などである。
    これを毎月あとから計算して各人別に割当てた。
    寄付帳や奉願帳の分は別にその都度皆に廻して各人から出した。
    4 親分・子.分のこと
    53ケ条 (前記) にのっとって. 親山で3年3月10日間の修業を積んで親分になり. 子分をもつことができる。
    そして親分,子分の盆を交す儀式(取立式)で出世するということになる。
    親分・子分の関係は普通の血肉の親子関係と全く同じであった。
    このように家族と同じようにみるから,兄弟も出てくるし,年子もでる。
    又,親分の兄弟分は叔父貴になる。
    取立式の時の世話人も,立会人も,叔父貴といった。
    親分の親分は "じいさま" である。
    そして大体血縁関係よりも友子の方が優先する。
    子分を1人もつと子供と同じように大変だ。
    まず着物ー揃いは買ってやる。
    つきあいは実に義理を重んずるのでその費用も大変である。
    人情と義理……親分,子分……。
    親分. 子分の縁を断るということは,ほとんどないが,もしこれをするとすれば大変である。
    まず隣山立会,浪人立会を招いてはかる。
    親族会議を開いて勘当するのと同じだ。
    そうなると,他の山へ行っても受入れてくれない。
    廻状が廻ってしまうからだ。
    こんな場合のことを "2足わらじ" という。
    そして "道明け" をつけなければ入れない。
    道明けというのは白,黒をはっきりさせることである。
    友子に入るということは,必ず誰かの子分になることである。
    その条件は53ケ条にのっている。
    不品行,前科,怠け者等は許されない。
    席順も53ケ条に全部きまっている。
    浪人立会 (全国代表,もめ事の仲裁役) が一番上席,世話人 (仲人・叔父貴) となる。
    盃をかわすということであるが,この時の酒は塩酒を使う。(昔血をすすったという名残りだろう)。
    親分,子分が向い合って並ぶ上3人は3つ組の盃で本式に盃をかわす。
    あとは全部略式。親分の側に扇1本をおく。
    これは昔,苗字帯刀を許された時のその刀の代りの意味である。
    順序としては,まず,三宝の上にのせた "セットウ" と "タガネ" を列の終りまで通す。
    その次に盃を通す。
    ついでやるのは世話人。
    終ってコンプと梅干を通す。
    そのあとで "山例法" を読む。
    53ケ条全部は長いのでごく関係の深い一部分だけを聞かせる。
    終ってー同に披露。
    それから子分が親分を送る。
    宴会に入る。
    親分は家に帰って子分にご馳走する。
    残った浪人の御祝儀は1円位だった。
    友子の役付は,大当番(今の委員長のようなもの) 1名,はこもと(会計) 1名,次に当番頭(連絡係)1名,区長,小使役となる。
    任期はl年で改選は年1度の大集会できめる。
    よその山に渡って行く浪人はなかなか苦労する。
    日暮れにいかないと泊れない。
    例えばひる頃三井美唄に来ても,まだ夕方まで歩かなければならない。
    だから新美唄まで行ってしまうことになる。
    だから夕方を狙って行くのである。
    この山の友子は沼貝時代からあった。
    昭和6年に共愛組合ができてから下火になり,新しい加入者がなくなったのは昭和17年頃というから,戦争の影響であろう。


『美唄市史』, p.668
取立面附


『美唄市百年史』, p.401
「三法書」部分