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『美唄市百年史』, p.377
大正4 (1915) 年に飯田美唄炭鉱のあとを受けた三菱美唄炭鉱になると、岩層中に大坑道を掘り進み、石炭層にぶつかるとその炭層に沿って二本の平行な坑道 (沿層坑道) を掘る。
そして一定間隔で小坑道でつなぎ炭層を一定の間隔に区分し、それを一つずつ採炭 (払い) していき、幾つかの炭柱は天磐を支えるために残す「残柱式採炭法」がとられるようになった。
大正12 (1923) 年になると、坑内の規模は別として多くの炭鉱がこの方法となった。
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『世界大百科事典』, 1988,「採炭」
炭柱式採炭法では,坑道を掘進するように炭層の内部に,碁盤目状に採掘を行う方式であり,炭層内に多数の四角い炭柱が規則正しく配列するようになる。
この炭柱はその後,順次,二次的に採掘されることになる。‥‥‥
炭柱の形を四角でなく,短冊状にする方式もある。
この方式は,日本では,現在のように採炭機械が発達しておらず,かつ比較的浅い炭層でガスが少なく,また地表陥没の問題がなかった時代には,簡便に採掘ができるので盛んに行われたが,漸次坑内が深くなるにつれて行きづまり,ほとんど長壁式採炭法に移行していった。
一つの採炭区画を坑道掘進の要領で碁盤目状に採掘する (上)。
次に採炭区画の奥から炭柱を採掘しながら後退してくる (下)。
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