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『世界大百科事典』, 1988,「採炭」
炭鉱の坑内が機械化され,今日のような近代的炭鉱になるのは20世紀に入ってからであるが,
とくに第1次大戦後のヨーロッパの復興期には,ベルトコンベヤやカッターローダー(石炭層の下縁をカッターで切り崩し,崩壊した石炭をコンベヤにのせる機械)が開発されて長壁式の採炭法が発達し,火薬の使用とともに高能率の採炭が行えるようになった。
さらに第2次大戦後のヨーロッパの各炭鉱では,水圧鉄柱とカッペによる長壁式採炭が,アメリカの炭鉱ではコンティニュアスマイナー(機械本体の前方にある切削刃のついた回転ドラムで石炭を切削し,その石炭をすくいとって,コンベヤで後方の運搬装置に運び入れる作業を行う機械)を使用する炭柱式の採炭技術が進歩した。
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『足跡 : 三井美唄35年史』, pp.66-68
当所は機械化のモデルマインとして. 全道でも全国でも屈指の炭鉱である。
終戦後当所に入った機械は(S 28. 4現) 米国ジョイ社のローダー2台,坑内トラックとも云えるシャトルカー2台, コール・モピル・ドリル. グッドマン製のコールカッター2台, 三池製作所のローダー旧型4台,新型2台, カーローダー3台, 家鴨の嘴のダックビル2 台等。
昭和3年8 月1 日は三井美唄始りの日であるが, それまでのヤマは, ポンプも捲揚げも全部蒸気だった。
採炭にもドリルを使わず, 大工のクリックポールのように腹にあてオーガーをつけて手で廻した。
運搬はへソ押し, 水流し,ユリコンベ, 半コロ, スラバコに分けたが, これを説明すると "へソ押" はV型トラフにあて篏る板にT字型に棒をつけてトラフの縁に両手をかけて,棒をへソのあたりに当てて,押していくのである。
"水流し" は切羽に出てくる水を集めて, トラフに入れて流す方法である。
"揺りコンベ" はシェーカコンベヤのようなもので,針金で吊り, 足をふんばってヨイサッ, ヨイサッとかけ声諸共人力で揺するのである。
"半コロ" は廃車の4分の1位の大きさの木函に小さい車をつけてタル木をレール代りにして. その上にのせてひっぱっていく方法である。
"スラバコ" は一寸傾斜のところで. 車では軽すぎ.V型トラフでは流れないところで使うもので,車輸の代りに滑り金をつかったものである。
昭和3年11月に電気の機械が入った。
昭和4年の暮にデタチャプルチェーン(ダルマチェーン) が砂川から人.った。
この取付けは現在なら3時間位でできるものを当時は1昼夜かかつてはめられたのである。
これがヤマの機械化の始まりといってよい。
それからコンプレッサー・ハンマー・カッターと機械化の歩みが始まった。
コールカッタが入って来たのは昭和5年頃でアメリカさんがついてきた。
サリバンの30馬力のC L E 2型というのである。
この時は黒金文治さんがアメリカさんの後山として操作を習った。
アメリカさんがカッターの上にのり "金てこ" 2本持って楽々と動かしている。
代ってやって見てもテコでも動かなかったそうである。
この様な状態は終戟当時まで続いた。
特に戦時中は精神力一点張りだから進歩はなかった。
コンベアーなども不足で2段パネをやっていた。
つまり機械の台数はふえたが,新しいものは何もなかったのである。
進歩はなく昭和5年頃から終戦までは機械化の真空地帯だったともいえる。
終戦後. 23年. 24頃までは労働運動はなやかなりし頃で, お互に技術進歩には致らなかったが. 24年暮頃から労使共に技術改善という面に重点を入れだし. 機械化採炭と云うことがクローズアップされて来た。
同時に日本の炭鉱の条件はアメリカ式よりドイツ式に学ぶべきだという意見になり,最初に入って来たのがカッペ採炭である。
これは当時大浜炭鉱でとり入れ研究中であったのを, 当所が全道に先がけてこのカッペと取組んだのである。
本格的にやりだしたのは, 昭和25年7月1日である。
当時10幾つも散在していた切羽を1ヶ年の間に6ケ所に集約し,オールカッペ化した。
このカッペ採炭の開始と共に急速に機械化が行われたが, これは切羽無支柱が最大の原因だといわれる。
この頃福山岬さんが考案した親子カッターがある。
その後これを改良して, ダブルジブカッターとなった。
これが三池製のダブルカッターの前身で, 日本のダブルジブ第1号機ともいえる。
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