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『足跡 : 三井美唄35年史』, pp.19,20
昭和3年8 月1 日は三井美唄始りの日であるが, それまでのヤマは, ポンプも捲揚げも全部蒸気だった。
採炭にもドリルを使わず, 大工のクリックポールのように腹にあてオーガーをつけて手で廻した。
運搬はへソ押し, 水流し,ユリコンベ, 半コロ, スラバコに分けたが, これを説明すると
"へソ押" は,V型トラフにあて篏る板にT字型に棒をつけてトラフの縁に両手をかけて,棒をへソのあたりに当てて,押していくのである。
"水流し" は,切羽に出てくる水を集めて, トラフに入れて流す方法である。
"揺りコンベ" は,シェーカコンベヤのようなもので,針金で吊り, 足をふんばってヨイサッ, ヨイサッとかけ声諸共人力で揺するのである。
"半コロ" は,廃車の4分の1位の大きさの木函に小さい車をつけてタル木をレール代りにして. その上にのせてひっぱっていく方法である。
"スラバコ" は,一寸傾斜のところで. 車では軽すぎ.V型トラフでは流れないところで使うもので,車輸の代りに滑り金をつかったものである。
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『美唄市百年史』, pp.377,378.
一切羽の人員は炭層などの条件によって異なるが、二人一組・三人一組くらいの単位
が普通であった。
三菱美唄炭鉱では単位が少し大きく、大正8 (1919) 年ころまでの掘進切羽で3人、採炭 (払い) 切羽で6〜10人が普通であった。
この一組を槌組といって先山と後山からなり、熟練した先山が発破の穴をあけている間に、後山はすかしを入れたり石炭を積み込む空車を準備したりする。
そのあと発破係員に発破をかけてもらい、発破が終わると丸太などで天磐などを押さえ、崩した石炭を 0.7トン積みの炭車にスコップで積み込み、運搬夫のいる運搬坑道まで後山が運び出す。
切羽がのびるに従って距離は遠くなる。
さらに炭車の入らない切羽もある。
三菱美唄炭鉱労働組合編「炭鉱に生きる」には次のように書かれている。
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箱で背負ったり、天秤でかついだり、炭層の薄く低いところでは「すら箱」を引いたりしなければならなかった。
すら箱というのは約 0.2トン入る箱に橇を打ちつけたもので、下盤に笹や生木丸太を敷いてその上を引くのである。
姿勢は四つんばい、膝にもわらじをつけて引く姿は人間とは思えないほど惨めなものである。
九州からきた婦人労働者が上手で、大の男も敵わなかったといわれる。
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炭車の入るところでも、斜坑になると一車ごとに一寸刻みに押し上げたり、レールにわらじを滑らして徐々に下げたり薄暗いカンテラの光を頼りに汗をしぽるが、押さえきれなくて炭車が自走して傷害事故を起こすことも少なくなかった。
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『美唄市百年史』, p.378.
運搬坑道まで運び出すと、三菱美唄炭鉱では「棹取り」と呼ばれる運搬夫が配置されていた。
ここから坑外まで水平坑道は馬、斜坑は自転昇降器で炭車を搬出するが、各切羽の炭車が集中するここでの炭車の操作は、棹取りの技術が出炭能率の鍵を握るといわれるほど機敏さと技術が必要で、しかも各切羽への配車の権限ももっていた。
のんびりした切羽には炭車が割り当てられない恐れもある。
空車の割り当てがないと、切羽から石炭は出されないことになるから配車を素早く受けるのも後山の大切な仕事であった。
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