Up 計画都市 作成: 2024-02-04
更新: 2024-02-07


    美唄の炭鉱は,中小炭鉱が三井・三菱の二つの鉱業所に統合された。
    炭鉱の(さま)は,企業が中小か大かで,まったく違ってくる。
    大企業の炭鉱は,中小炭鉱のできないことを,やるようになるからである。
    特に,つぎの二つ:
    • 坑内・坑外作業の機械化
    • 計画都市の形にコミュニティをつくる

    三井・三菱は,それぞれ三井美唄・三菱美唄を計画都市としてつくっていく。
    見映えは,三井がよい。
    これは地形・地勢が理由である。

    三菱美唄は,谷沿いに鉱員居住地を展開することになる。
    よって,どうしても手狭になり,そして居住区があちこちに散らばる。
    一方,三井美唄が鉱員居住地を展開するところは,扇状地である。
    そこで,白い画用紙に思うまま線を引くような計画ができる。

黒田 (1936), p.521


川島 (1933), p.905


    実際,計画者は都市計画に嵌まってしまい,「遊び」の域までぶっ飛んでしまった観がある。
    三井美唄は,鉱員住宅地としては不必要に「文化的」なのである。

    《計画に嵌まりこれで遊んでしまう》は,自由な地を与えられた開拓庁のやりがちなことである。
    北海道開拓庁は,まさにこんな感じであった。
    三井美唄の計画都市づくりも,北海道開拓の系譜に連なっているふうがある。


    先ず,計画都市三井美唄は,結構な規模である。
    同スケールで,三井美唄を札幌市街地と比べてみると:
札幌 (Google マップ, 2011-04-21)

三井美唄 (国土地理院 空中写真, 1962)
黄色:鉱員住宅域,水色:職員住宅域,赤色:社外者営業域


    この住宅区は,つぎの計画でつくられた:
     川島 (1933), p.905-907 (川島三郎は初代三井美唄礦業所長)
    ‥‥‥ 諸建物は安く丈夫に防火的にして而も使用に便利ならしむるを主眼とし、材料は實際に耐久力ある丸太材、押角等の使用を多くし,屋根は從來の柾葺板葺を全廃し、坑外運搬軌道上家に至る迄総て亜鉛引鐵板葺とせり。
     坑夫住宅は,石狩平野の全貌を眼下に眺め高燥景勝の地を選び、敷地を廣くし (1戸當60坪),別圖に示せるが如く4戸建、若しくは2戸建,1戸3室とし,所謂坑夫長屋式観を脱却し、居心地よきものとする事に努めたり。‥‥‥
    敷地、道路
    東西南北を縦貫する10間幅の道路を交叉せしめ、之れを基準として長86間、幅25間の地域を一區劃とし、縦構に幅3問の道路を通す。
    中央道路の左右各3間は芝生とし、中央6間を本道路とせり。
    區劃の周囲にはアカシヤの街路樹を配したり。
    社宅の構造
    1區劃中には4戸建 (2.5K×16K) 8棟,2戸建 (2.6K×8K) 2棟、計36.戸を配置せり。
    各棟の間隔は横5間,裏13間 (野菓畑に利用せり)。
    玄關より道路下水間 3間 (此間は庭園とし各戸共花卉を栽培ぜり)。

    川島 (1933) の謂う「1戸當60坪」の計算:
      1区画の面積:長86間, 幅25間 = 2150 坪
      1区画の戸数:4 × 8 + 2 × 2 =36 戸
      2150 ÷ 36 = 59.7 坪/戸

      黒田 (1936), pp.526,527. (黒田近雄は3代目三井美唄礦業所長)
     社宅は従業員が帰宅後に充分家庭的の団欒気分を満喫して、而も居ながらに市街地気分をも味はへる様にとの考へから社宅街を建設したもので、先づ道路を井型に設定して其の両側にはアカシヤの街路樹を植え、又社宅の外廓を逍遙道路で包み,社宅中央の大通はその左右に2間幅の芝生を作って其の中に桜を植え美観を添へて居る。
    社宅の一棟は4戸建又は2戸建として各道路に面して左右に並列させ、東南向になって居るからその表裏から午前午後交互に日光を受くる様になって居る。
     間取は第6図の様に表側に玄関があり、裏側に勝手出入口があるので,室内の整頓が往き届いて住心地がよく、玄関の前庭には各自の花壇があり、裏側は十数間の隔りがあるため日常の蔬菜を栽培して居る。
     處が此頃家族の多い家では夜勤時の睡眠が困難であると云ふものがある為、第7図の如く家の高さを増し屋根裏を利用して2階に4畳半と1間半の押入を採る事としし,今年100 戸を新築した。





『美唄市百年史』, p.757 から引用:
移転した炭鉱住宅街 (1935年)


    つぎは,先の三井美唄空中写真の鉱員住宅地区を拡大したものであり,黒田 (1936) が述べている通りであることがわかる:

    各戸は,黒田 (1936) が書いているように,自分の敷地を畑づくりに使った。
    さらには,小屋をつくってニワトリやウサギを飼ったりした。
    また,物干しが最初からついていて,秋はどこの戸もダイコン干しになる。
    昔の北海道は,冬は野菜の無い季節だったので,野菜の保存食をつくるのはアタリマエだったのである。
    大根・白菜は,会社が主に岩見沢から一括して調達し,各戸に馬車で配給した。

    ちなみに,各戸の燃料である石炭・薪も,馬車で配給されるものであった。
    棟には,石炭を入れる小屋と,薪を積む屋内スペースが備えられていた。


    社外者は,三井美唄の住宅域に入って店舗・事務所等を構えることはできない。
    彼らの圏域は,栄町である (上の空中写真で赤色で示したところ)。

    住宅地に入ってくるのは豆腐・鶏卵・パン売りとか雑品屋 (修繕・廃品回収) であり,みな栄町住人か近くの農家である。(唯一の例外が,富山の薬売り。)
    押し売りや物乞い等が入って来ないのは,会社側で取り締まっていたことになる。
    その署は, 「詰所」(三井美唄では「外勤」と呼んでいた) である。


  • 引用文献
    • 川島三郎「美唄の探炭計晝に就て」, 日本礦業會誌, Vol.49 (No.584), 1933. pp.887-909.
    • 黒田近雄「三井美唄炭礦の現況に就て」, 日本礦業會誌 No.615, 1936