|
吉岡宏高『明るい炭鉱』, 創元社, 2012, pp.1-6.
地底奥深い漆黒の暗闇に人玉のような光がうごめく。
天盤が崩れないように、木柱で支えられた狭い坑道が光の中に浮かび上がり、往年の東映やくざ映画に出てくるような、倶利迦羅紋紋の刺青姿の坑夫たちが、裸になって働いている。
自慢の腕力にものを言わせ、軽々と削岩機を握り、ダダダダダ‥‥‥と勢いよく石炭を切り出す。
刑務所の看守のような会社係員の監視下で、長時間のつらく厳しい労働が終わり、今日も運良くトロッコで地上へ帰還することができた坑夫たち。
彼らが戻る先は、スラム街のように密集した、粗末な木造の炭鉱長屋街。
そこは、素堀りの側溝から様々な排水や汚物が匂いたち、裸足の子供たちが駆け回る。
共同水道では、おかみさんたちが夕食の準備に精を出している。
夜ごと、近所の坑夫仲間が集まっては、焼酎と合成酒で酒盛り、やがて花札賭博、そして最後は決まったように喧嘩騒ぎ‥‥‥。
彼らの日常は情熱的だが刹那的で、貧しいが人間的である。
しかし、ある日突然、ドカンと一発爆発があると、それまでの日常は暗転し、涙と怒号の混乱が押し寄せる。
やがて時とともに、一時の喧噪が忘却の彼方に押しやられ、後に残るのは遺族と失業者、陥没した地面。
そして、いちはやく忘れ去りたい、悲しく辛い「負の記憶」しかない‥‥‥。
多くの人が炭鉱に対して抱く典型的なイメージは、多かれ少なかれこのようなものなのではないだろうか。
‥‥‥
戦前期まで、またある一部の地域では、1960年代に入ってからも、このような姿がみられたことはまぎれもない事実である。
しかし、それは暦史のある一時期、ある地域の断片的な姿でしかないことを知っている人は少ない。
地球だって、太陽に照らされていない半分は暗闇だが、太陽の光を浴びている半球は明るい。
暗い部分と明るい部分が、ぐるんぐるんと回って一つの地球がある。
これと同じように、炭鉱も暗いだけではなく、確かに明るい部分があった。
これから皆さんを「明るい炭鉱」にご案内しよう。
|
|
明るい暗いは,照射光の反射強度のことである。
人の営み自体に,明るい暗いは無い。
明るい暗いは,光の照射を演出するものの作為である。
暗い演出を批判する方法は,明るい演出で対抗することではない。
繰り返すが,人の営みに明るい暗いは無い。
批判の方法は,<暗い光照射の演出>の解体である。
即ち,つぎのことを明らかにする:
暗い光照射の演出は,何が狙いか?
暗い光照射の演出を行う者たちは,自分の作為をどう合理化しているのか?
暗い演出を導いているものは,「崇高な目的の実現になるなら,何をやってもよい」──「目的は手段を正当化する」──イデオロギーである。
このときの「崇高な目的」は「世直し」であり,即ち「革命」である。
「何をやってもよい」のロジックを以て行うことは,「暴力」である。
「暴力」は,「聖なる血」のことばで,崇高なものにされる。
「暴力」の意味は「何をやってもよい」であるから,陰謀や騙しのプロパガンダもこのうちに入る。
それも,立派な聖戦である。
こうして,「世直し」を夢見る者は,みな大なり小なり,陰謀や騙しのプロパガンダにのめり込んでいく。
彼らは,みな大なり小なりテロリストになる。
しかし,炭鉱を暗く演出することが,どうして「革命」につながるのか?
「革命」イデオロギーは,<暗い者たち>を「革命」の主体と定める。
しかし<暗い者たち>は,自分が<暗い者たち>であることに無自覚である。
そこで彼らに,自分たちが<暗い者たち>であることを教えてやる。
そして彼らに決起を促す。
炭鉱に棲む者たちは,ずっと「革命」の主体になる<暗い者たち>の部類として目をつけられてきた。
坑夫は,相対的に実入りがよい。
熟練技能職だからである。
しかし<暗い者たち>に見られてきた。
<暗い者たち>に見られてしまったのは,おそらくその風体と労働様態からである。
『足跡 : 三井美唄35年史』から引用
戦後の労働組合の時代は,さすがに「暴力革命」の時代ではなくなったことと対応している。
「革命」は,「左翼政党に投票する」がこれの意味になった。
そして炭鉱が,左翼政党が票田とするところになる。
組織化 (「オルグ」) の方法は,これまでと同じ。
自分たちが<暗い者たち>であることを教えてやる──である,
しかし,組合運動は,もはや「革命」とは関係ない。
組合の闘争は,利己的要求闘争だからである。
そしていまに至る。
左翼政党は,つぎを票獲得の方法にして凌ぎをしている:
<暗い者たち>の存在をキャンペーン
<暗い者たち>の利己的要求を組織化
|