Up 光珠炭鉱 作成: 2023-12-25
更新: 2024-02-05


    光珠炭鉱発起
       三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5, pp.12-14
    当所の沿革史として美唄町史を見ると
     「 当鉱区は,元村井鉱業株式会社の所有なりしが,
    大正9年宝田石油株式会社これを譲受け専ら炭層調査を行い,
    大正10年10月,同社が日本石油株式会社に合併せらるるに至り,日本石油会社の名儀に移れり。
    大正11年,三井鉱山株式会社より東部隣接鉱区の一部を譲受け,光珠炭鉱と称し,同年11月起業に着手し,同13年3月,田中汽船鉱業株式会社経営の沼貝炭鉱を買収し,同年11月営業を開始せり。 昭和3年8月其の経営一切を三井鉱山株式会社にて引受け,同社所有鉱区の一部を合併して三井美唄炭鉱と改称せり。」
    とある。
     ‥‥‥
    大正9年5月から "落合の沢" 上流から7号の沢,4号の沢 (川内) にかけての村井鉱区を引ついだ「宝田石油株式会社」は,新潟麻長岡市に本社を持つ当時の「石油大手会社」の一つで,社長は橋本圭三郎氏であった。
    石油業者が炭鉱経営に乗り出したのは,決して商売敵である炭鉱に対する攻勢というのでなく,要は石油乾溜用として使用する自家用炭が欲しかったということであったといわれる。
    当時石炭が仲々高く少しでも安い石炭を必要とした石油会社が考えた一石二鳥の策であったのだろう。
    結局は "餅は餅屋" で炭界不況となれば "慣れない商法" では炭鉱経営を支え切れず,最後は "炭鉱や" に城を空け渡したというところである。
    日石に引つがれた「光珠炭鉱」は. いわば当時の石油業者の "苦心の申し子" といったものであ る。
    さて,宝田が実際に主人公,経営者であった時代は.結局調査.試掘の一年程で,三番層(落合) 五番層(奥の沢) から川内に亘る一帯を,当時の調査隊が熊笹を分け谷川を渡って調べたらしい。
    現在でも七号の沢の上流深くには,その時代の試掘の坑口が残っている。
    もちろん当時のこの辺の山は,"オヤグの巣" というほどの未開地で,色々とこれに関する話があったようである。
    大正10年になって,宝田石油と日本石油の二大油ヤが仲よく手を握り,合併の上,日石一本になった。
    社長は日石の内藤久寛氏が就任,橋本宝田社長は副社長に納ったが,後に内藤氏の後をついで二代社長に就任した。
    これで10月以降は日本石油名儀となった。
    日石では. 美唄の炭鉱開発方針ーをそのまま宝田より引つぎ,愈々起業に着手することになった。
    然しこの仕事は,やはり手慣れた炭鉱ヤに頼むに限ると,橋本副社長から大倉組の重役細井岩弥氏にワタリがつけられ,本格的開発工事の実施担当の大命が,大倉茂尻炭鉱にいた菅六郎氏に降下したのである。
    炭鉱鉄道時代の夕張をふり出しに,道内の炭鉱開発のベテラン菅六郎氏が早速日石美唄の開発のための要員を茂尻坑から選抜し. 美唄に乗り込んだのが大正11年の春である。
    その時のメシパーは浅沼英次郎氏,三浦金助氏などのよりすぐりの先山連10名であった。
    この中には現在南美唄の商店で名じみの大川重道,福光常太郎,吉岡伝太郎,進藤熊作,柳市五郎氏などがいた。
    一行はそれぞれ美唄市街地に居を構え,三交替で落合の沢右股の谷を上り,落合斜坑開さくの準備に通った。
    当時出勤者は時間をきめて東明の入梁橋のたもとに集合,かたまって沢道を辿った。
    少人数では途中熊に合う危険があったわけで. この橋が事実上の繰込場であったと当時の人々は語っている。
    そしてこの落合右股の沢沿いの道が,13年落合社宅ができーの沢からのルートがつくまでの米,みそなどの運搬路となったのである。,
    12年8月. 待望の落合坑 (旧ー坑三番層斜坑) の坑口の起工式が行われた。
    そしてここで始めて「光珠炭鉱」の名乗りを上げた。
    光珠炭鉱坑口起工式
      続いて奥沢坑 (五番層.旧ニ坑.五層第一斜坑) の斜坑も開さくに着手. 鋭意工事が進められた。
      奥沢坑の方は沼貝炭鉱が掘っていたーの沢右股の奥であり,坑内ズリでけわしい谷を埋めて行ったという。


    石炭搬出ルート
      同上, pp.14,15
    大正13年3月17日.休山中であった沼貝炭鉱の買収が実現した。
    かねて光珠炭鉱では斜坑開さくの進行に伴い.掘り出した石炭の搬出ルートをどこにするかが検討されていた。
    一番簡単なのはーの沢ルートであるが,これには出口を(やく)している沼貝炭鉱の存在が邪魔になる。
    改善策として峰廷への搬出ルートが採り上げられたが,このためには.落合坑の三番層よりも五番層の開発が優先されねばならぬこと,しかも炭質その他から見て三番層の優先開発がより有利であり,選炭機の建設の問題.資金事情などから,蜂延ルートにも多々障碍があり,反対意見も強かった。
    たまたま沼貝炭鉱は事業不振のため大正11年には休山になっていることから,一挙にこれを買収したらよいということになり,交渉が行われ.13年3月に至ってこれが成立したのである。
    当時光珠炭鉱側としては,沼貝炭鉱の鉱区や坑内施設などの価値を全然認めず,地上権とくに坑外エンドレス,引込線などの権利や施設を買取るという考え方で,買収価格も金7.500円であったという。
    なお奥の沢の社宅も,まだ残留していた一部の従業者とともに日石に引取ることになり.ここに光珠炭鉱の態勢は出来上った。
    なお,初代所長には菅六郎氏が就任した。
    大王13年は光珠炭鉱が,名実ともにー炭鉱としての形態を完成した年であり.人員も急速に充足された年である。
    坑外施設の建設も急ピッチで行われ,落合の沢には事務所・住宅・配給所・クラブ・寮の建築が活気に満ちて高くこだました。



    エンドレス
      同上, p.15
    また坑外の運搬施設としては,この年に落合坑口から現通洞坑口下までの 5,327M のエンドレス [第1エンドレス] 工事が突貫工事で進められ. 7月に旧沼貝のエンドレス [第2エンドレス] と連結された。
    動力は200馬力.複胴式のもので.蒸気機関であった。
    この動力によって同時に新旧両エンドレス [第1, 第2エンドレス] を動かすようにしたが. 規模の小さい下のエンドレスのワイヤーやレールなども.より大型のものに改良された。
    また落合坑口に選炭機も完成,落合坑のスミの生産態勢が出来上った。
    一方奥の沢坑 (旧二坑・五番層) の方は,沼貝時代のインクライン [自転捲] システムにより石炭搬出,これも下のエンドレス [第2エンドレス] には灌漑溝の附近の積込場まで送るなど,11月になって "光珠炭鉱" の営業が開始されたのである。
    当時の出炭は日産300 tといわれている。

    「エンドレス」は,スキーリフトやロープウェイのロープが,炭車軌道の中央に張られている格好のものである。
    「インクライン」は,ケーブルカーやエレベータの方式。
    重力を利用して石炭を積んだ炭車の下げと空の単車の上げを対にすることで,石炭を運搬する。


    炭鉱街
      同上, pp.15,17
    住宅の完成とともに,家族連れの労務者の数も増え,小学校も開かれた。
    光珠小学校がそれである。
    尋常1 年から6年までのこども150 人程が木の香も新らしい校舎で. 3人の先生から勉強を習う声が,人々の気持ちを和やかにした。
    校長は原田定吉(?)氏であった。
    電灯工事も進行し.かつての "熊の住む山奥" の地に文明の光をもたらした。
    社宅は落合坑口から1800M離れた地点に立ち.21棟の10間長屋で210戸,職員社宅4戸建3棟であった。
    また寮(飯場)も11年にやって来たメンパーの中の進藤熊作. 吉岡伝太郎氏などが開き,進藤飯場では同時に売店の経営もやっていたという。
    この落合社宅は昭和6年三井時代になって現在の2丁目 (下1条右,下2条〉あたりへ移されるまで存続した。
    元5戸建の社宅で,俗に移設と云われたものである。
    大正11年から落合坑開さくのための入山ルートであった落合右股の沢の道のほか,13 年にはーの沢方面からルートも出来たが,落合社宅へ向う人々はこの山道を駄鞍馬(ダグラウママ)の背にゆられて登って行ったが,この道が昭和7年事務所が現在位置に移るまでの,会社の事務所や社宅へのルートとして使われ. 人々の往来も繁かった。
    大正14年10月に,この道の中間,エンドレス型動力機の附近 ─ 通称「中央の沢」といわれた地点に東松光道師が 曹洞宗の教場を設立,布教法要につとめた。
    これが当所の宗教関係施設の始まりである。
    この教場は昭和5年7月6日南美唄市街地に移転し,現在の禅寺 "東光寺" となったのである。
    一方,11年沼貝の休山によりー時火の消えたようになった奥の沢( ーの沢) 一帯も,13年日石買収とともに再び活気を取りもどし,坑外工事の進展に伴い,人々も増え,商店もぼつぼつ開店し出した。
    また各飯場や組なども増えだし,現在の事務所,病院の前の道の両側にはそれらの家々がちょっとしたマチを形成した。
    現在の市街地に当る地点は,大正7年夏につけられた中央通り(実際は細い一本の道路) の両側は谷地であり,ーの沢川は第一門街裏より彎曲し,藤野商店の裏,煉炭工場下から学校東校舎側の崖下を通り. 柳湯あたりたら現在の流れに合していたもので,見張り(案内所) から下には1軒の家もない谷地だった。
    この地点に市街が移ったのは,昭和6,7年ころで,落合から事務所の移転,現送炭機の完成を見た時,門衛から奥にあった商店を一斉に移したものである。

       『美唄市史』,1970. p.478
    位置 落合町落合の沢上流
    鉱区 採掘登録 第262号 面積 861,582坪 (約287ha)
         第251号    924,490坪 (約308 ha )
         第281号 (大正1 4年から)
         第256号
         第263号 (沼貝炭鉱から買収)
    鉱長 菅六郎
    沿革 本鉱区は,明治43年ころ,村井貞之助が所有していたが,大正7年から数度にわたって宝田(ほうでん)石油株式会社が譲り受け,もっばら地表地下の調査を行なっていた。
    大正10年5月,同社は日本石油株式会社に合併するとともにいっさいの権利を譲渡し,さらに大正11 年,三井鉱山株式会社から隣接鉱区を譲り受け,大正12年,待望の落合坑の開坑となった。
    大正13 年,石炭搬出路にあった休山中の沼貝炭鉱の買収に成功し,奥の沢にあった社宅や,残留していた従業員をも吸収することにより,名実ともに炭鉱としての形が整った。
    時代は大正から昭和に移り,当時の不況に日石も抗しきれず,昭和3年8月1日を期して経営のいっさいを三井鉱山へ引き継いだ。
    出炭量
     
    大正12年 168 t
      13年 22,791
      14年 83,789
      15年 150,767
    昭和2年 147,086
      3年 135,961
    炭質 不粘結性 一般燃料用 7,000 cal


       川島 (1933) pp.889,890
      坑内
        [落合坑 奥澤坑] 各斜坑の左右に45米り間隔を以て片磐を設けたり。
      採炭方法 
        片磐向前進式長壁法 (切羽面の長45米) にょり総て手掘なり。
      運搬
        切羽運搬
          鐡板製戸樋を敷設し手押又は水流によれり。
        片磐運搬
          木製炭車 (容量、落合坑分0.7瓲、奥澤坑分04雁を使用し,手押及馬匹によれり。
        抗外運搬
          落合坑出炭は,エンドレスロープにより211米の距離にある手選場に迭り,
          塊粉に分級し,大塊は手選の上成品とし,其他は未選の儘,何れも炭車に積込,
          第一エンドレスロープ(1,768米) 及第2エンドレスロープ(3,559米) 全長5.33粁のエンドレスロープにより,[鉄道貨車] 積込場に運搬せり。

          奥澤抗の出炭は,七段の自轉捲 [インクライン] 及馬匹により(延長1,894米),現在の通洞抗口附近にありし手選場に運搬,落合坑同様の處理をなし、第2エンドレスロープにて積込場に送附せり。

          第1、第2エンドレスは,上記の如く延長5.33粁に及び,起點、終點の高低 3,170米,最大勾配1/5,平均1/22 且つ地形の關係上曲線部多く,奥澤坑自轉捲と共に操業甚だ困難にして,坑外運搬費は毎瓲70銭の多額に上れり。(第4圖参照)
      選炭
        落合、奥澤両坑共,手選場に手選帯各1臺を有し,大塊は此處にて成品とし,中塊、粉炭は積込場に於ける水洗機(共益社式1時間能力25瓲)1臺を以て塊粉混合の上水洗し,成品は再び中塊粉炭に分級せり。
      通氣排水照明
        坑内排水は,ウオーシントン型蒸汽喞筒を用ひ。
        通氣は,其發散熟を利用し自然通氣とせり。
        坑内照明
          落合抗にはウルフ揮發油燈を用ひ。
          奥澤坑にはアセチリン燈を使用せりo
      動力
        総て蒸汽力にして電力としては電燈用として供給を受くるに止まれり。
      鑛夫数 昭和三年七月現在883名。
      諸建物
        當時の本據は落合澤に存在し,社宅、事務所、學校、総て同所にあり,杜宅の一部は一の澤にありたり。
      事業成績
        上述せる如く坑口は山頂に近く位置し,爲めに運搬甚だ不便にして,坑外運搬費は叙上の如く多額に上り,猶當時は未だ出炭も少く,勢ひ販賣諸費も相當に嵩み,原價の低下甚だ困難なる一方,炭況も亦不振勝なりし関係もあり,營業成績思はしからざりしは又止むを得ざりし次第なり。

      三井美唄地区
      『足跡』から引用



      川島 (1933) p.890




      『足跡』から引用
      落合の沢斜坑口


      落合選炭場附近


      第1エンドレス軌道 (1928)


      第2エンドレス軌道・奥沢職員従業員社宅


      落合職員従業員社宅 (1928)



      • 引用文献
        • 川島三郎「美唄の探炭計晝に就て」, 日本礦業會誌, Vol.49 (No.584), 1933., pp.887-909.
        • 三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』, 1964.5