Up 村井鉱業 作成: 2023-12-25
更新: 2023-12-25


       『足跡』, pp.5,6
    現在峰延駅から美唄よりに国道から岐れて山間に向って走る俗に「明治40年道路」と呼ばれる小径がある。
    三号の沢に沿うたもので,当所の元技師浅沼英二郎氏の言によれば,これは「材井鉱業時代」につけられた馬搬トロッコ用軌道跡であるという。
    またこの地域三号の沢の上流,川内(かわない)で室蘭の人松本熊治氏 (元当所松本喜寿氏の岳父) が明治37年頃請負で石炭を採掘した事実がある。
    農家の自家焚用などに売られたものらしいが、トロのレールを敷設,馬で搬出したという。
    松本氏は光珠内に小屋掛けをし,ここを本拠として川内へ通ったが,熊がさかんに出没し,採炭場への途中でもちょいちょいオヤジと面会したという。
    この二つの話には年代に2, 3年の食違いはあるが,そのどちらが正確かは別としてとにかく「川内」での採炭が明治後期の日露戦争当時行われたことは事実だと恩われる。
    もっともこの時代から大正初期にかけて,露頭のあるところでは,簡単な狸堀り式の石炭採掘が行われたことは,現在当所各地区に見る採掘跡の坑口が物語っている。
    いずれにしてもこの「川内坑」の経営が村井鉱業時代になされたらしいといわれているが. この「村井鉱業株式会社」という名称が当三井美唄の初りとなり,ヤマの沿革史の第一行となっているのである。
    村井鉱業については.現在正確な資料はないが,明治36年4月から実施の煙草専売制度に魁け.明治初年から煙草の製造販売をやっていた京都の株式会社「村井兄弟商会」のことになるらしい。
    村井兄弟商会は当時の民営煙草会社の一方の雄であり,"ヒーロ-(HERO" というタパコを作り,東京岩谷 "天狗印" 煙車と天下を二分するほどの大メーカーで,その当時の派手な宣伝鞍の模様が伝えられている。
    しかも村井は同時に「宝田石油株式会社」の重役でもあったといわれている。
    この一流実業家がこの地区の鉱業権を所有していたということになるらしいが,ただ会社の "鉱業原簿謄本" によれば. この地区「六号・四号・三号の沢奥の一帯」の鉱区の出願登録は,大正 9 年4 月26日,東京府奥多摩郡澁谷町の村井貞之助氏によりなされ,同9年5月29日に「宝田石油株式会社」に譲渡されたことになっているので,果してこの村井貞之助氏が,村井兄弟商会の一員であったかどうかはよくわからない。



  • 引用文献
    • 三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』, 1964.5.