Up 三菱美唄 (美唄炭山) 作成: 2023-12-21
更新: 2024-01-27


飯田炭鉱
三菱美唄炭砿

      角川日本地名大辞典 (1987)「ひがしびばいちょう東美唄町〈美唄市〉」
    昭和26年〜現在の美唄市の地区名。
    もとは美唄市 [美唄・光珠内・茶志内の3地区] のうち美唄地区の一部。
    当地は昭和16年三菱美唄集落に含まれた。
    字美唄・滝の沢・茶志内・ナシなどを含む地域。
    炭山または美唄炭山とも呼称。
    明治8 年「北海道地質測量報文」でビバイ (美貝) 煤田として紹介された美唄炭田の一部。
    大正2年ウェンシリアンピパイ (悪い山のあるビバイの意) 川に開坑した飯田美唄炭鉱の進出と大正3年石狩石炭会社による美唄軽便鉄道 (のち美唄鉄道) の開通によって開発が本格化。
    同4年三菱合資会社が炭鉱と鉄道を買収し,大正5〜7年約300棟の長屋・合宿所を増設し事業を拡大 (炭鉱の生活史)。
    大正6年の従業員戸数1,750・従業員数2, 759,人口9,750,翌7年我路尋常小学校を沼東尋常高等小学校と改称し校舎を新築移転,児童数734 (美唄炭坑概要)。
    その後も川沿いの丘陵地が開拓され,宮の下・我路の沢・鴻の台などの地域に分かれる。
    職員・鉱員数は大正8年5,116,昭和7年1,812人と激減し,長屋を追われて行き場のない人々は集落周辺に仮小屋を建設しそこを番外地と呼んだ (炭坑の生活史)。
    のちの従業員数は,昭和14年5,000人,同19年8,000人を超え,同20年の従業員9,651人 (石炭統制会北海道支部調)。
    ガス爆発で昭和16年死者177,同18年死者109。
    同20年終戦とともに強制連行されていた朝鮮人や中国人が帰国し,労働組合が設立され翌21年労働組合による生産管理がいわゆる人民裁判事件に発
    展する一方,労組組織は全日本炭鉱労働組合となる。
    同24年の世帯数5,287・人口2万8,603。
    同26年地内を番町・我路の沢・鴻の台・宮の下・旭台・清水台・ーの沢・二の沢・常盤台1区〜常盤台3区・楓が丘・桜が丘・桂台・月見台に分ける。
    同23〜29年炭鉱住宅改造,同27年三菱鉱病院准看護婦養成所・沼東高校など開設,
    同31年九州鉱山が操業を開始。
    同35年の世帯数4,586・人口2万3,053,主な文化団体25・スポーツ統合団体12。
    昭和40年三菱の企業縮小,九州鉱山撤退に続き,同41年沼東高校閉校。
    同42年ガス爆発が起こり死者16,山ハネによる死者13。
    同45年旭小学校が閉校して,同45年の世帯数1,446・人口4,932。
    同47年三菱美唄鉱閉山。
    同年美唄鉄道廃止,常盤小学校・常盤中学校閉校,翌48年沼東中学校閉校,同49年沼東小学校が閉校し,無住地域となる。
    昭和48年美唄川上流に多目的美唄ダム建設に着工,同50年炭鉱住宅跡地に国設美唄スキー場開設,同52年美唄川沿いの旧沼東中学校グラウンドに我路ファミリ一公園が開園,同55年美唄鉄道跡にサイクリングロード開通。

『美唄市史』 p.443 から引用:
1914年頃の飯田美唄炭礦略図



      『美唄史百年史』, p.389
    『殖民公報』八九号は、大正4 (1915) 年に飯田から買収した直後の三菱美唄炭鉱の状況について「創業日浅きを以て特に見るへきものなし」としながら、次のように述べている。
      
       事務所 一棟、
    坑務所 二棟、
    社宅 六戸建 七棟 四十二戸、
    坑夫長屋 十戸建 二十五棟 二百五十戸、
    長屋飯場 ニ箇所、
    選炭場 一棟、
    機缶庫 一棟、
    器械工場 二棟、
    木挽工場 一棟、
    倉庫 三箇所、
    配給所 一棟、
    共同浴場 三棟、
    合宿所 二棟
    あり。
    大正五年度に於て発電所、倉庫、病院、倶楽部の新設、事務所の改築移転等を為すと云ふ。‥‥‥
    地内に我路、沼貝の二駅あり、即ち今の美唄軽便鉄道株式会社の軽便線にして官線の美唄駅に接続し頗る便利なり。
    簡易の物資は美唄市街地にて購求し、主要のものは鉄道便に依り小樽、札幌、旭川方面に仰く。
    而して社員坑夫等に供給する物資は特に配給所を設け、鮮魚蔬菜類の外は皆分給す。
    該配給所は近く請負事業に附する予定なりと云ふ。
     ‥‥‥
     大正7 (1918) 年4月には、三菱美唄炭鉱地域だけで戸数1750戸、人口9750人、うち3269人が炭鉱の職員および従業員で、山内には発電所のほか多数の炭鉱施設、病院、神社、学校などを有し、沼東尋常高等小学校児童数734人であった。
    大正6年末の沼貝村の戸口、3827戸・2万5200人の、およそ40パーセントを占める巨大過密集落が短時間で形成されたのである。
     三菱では事業の拡大によってさらに広がる炭鉱住宅街に、大正7 (1928) 年から次々と小集落名をつけていく。
    美唄川をはさんで市街地 (我路) に接する鉱業用地の入り口から、番町・楓ケ丘・桜ケ丘・我路ノ沢・鴻ノ台・桂台・月見台・宮ノ下・旭台・清水台・常盤台・一ノ沢・二ノ沢。
    そして大正13 (1924) 年の常盤台駅開業に次いで、大正14年には新しい発電所の完成に合わせて滝ノ沢に鉱業用施設と炭住街を広げ、盤ノ沢駅を開設していった。

1916年測図・1935年改修地形図



『美唄百年史』, p.688 から引用:
新築間もない常盤台炭住街 (1922年)



『美唄市百年史』, p.388 から引用:









『美唄市百年史』, p.1028 から引用:
三菱美唄礦 鉄筋アパート (1957年)



美唄市『写真で見る美唄の20世紀』, 2001 から引用:
三菱美唄炭鉱清水台からの夜景 (昭和30年代)


国土地理院:地図・空中写真閲覧サービス から引用:
1962年の航空写真



1970年代北海道鉄道写真「美唄鉄道」から引用
常盤台



1970年代北海道鉄道写真「美唄鉄道」から引用
1969年 美唄史 1万分の1 地図から