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福岡伸一 (2007), pp.140-143
[Schrödinger, Erwin (1944) を解説して]
さて、生命現象もすべては物理の法則に帰順するのであれば、生命を構成する原子もまた絶え間のないランダムな熱運動 (ここに挙げたブラウン運動や拡散) から免れることはできない。
つまり細胞の内部は常に揺れ動いていることになる。
それにもかかわらず、生命は秩序を構築している。
その大前提として、"われわれの身体は原子にくらべてずっと大きくなければならない" というのである。
それは、すべての秩序ある現象は、膨大な数の原子 (あるいは原子からなる分子) が、一緒になって行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして顕在化するからである。
原子の「平均」的なふるまいは、統計学的な法則にしたがう。
そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。
ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして、集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである。
‥‥‥
平均から離れて、このような例外的なふるまいをする粒子の頻度は、平方根の法則 (ルートn法則) と呼ばれるものにしたがう。
つまり、百個の粒子があれば、そのうちおよそルート100 すなわち十個程度の粒子は、平均から外れたふるまいをしていることが見出される。
これは純粋に統計学から導かれることである。
さて、仮に、たった百個の原子から成り立つ生命体を考えてみよう。
この生命体は、どのような生命活動を行うにせよ、原子のうち常にルート100、すなわち十個程度の粒子は、その活動から外れることを覚悟しなくてはならない。
全体が百で、例外が十ならば、生命は常に10%の誤差率で不正確さをこうむることになる。
これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだろう。
では、生命体が百万個の原子から構成されているとすればどうだろうか。
平均から外れる粒子数はルート100万、すなわち1000となる。
すると誤差率は、1000÷100万=0.1% となり、格段に下がる。
実際の生命現象では、百万どころかその何億倍もの原子と分子が参画している。
生命体が、原子ひとつに比べてずっと大きい物理学上の理由がここにあるとシユレーディンガーは指摘したのである。
生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。
生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。
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ここで「ルートn法則」と言っているのは,推計統計の「中心極限定理」のことである:
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母集団が,平均μ,標準偏差σであるとする。
nを十分大きい数とする。
母集団からn個の標本を抽出し,そして平均を出す。
これを何回も行う。
平均の分布は,母集団の分布とは関係なく,<平均μ,標準偏差 σ/√n の正規分布>に近づく。
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この定理を「生物はこんなに大きい必要がある」の理にするわけである。
ただし,福岡 (2007) の「ルートn法則」の読み方は,意図的にやっているのかも知れぬが,インチキである。
──実際,「平均から外れる粒子」は,すべての粒子がこれである。
この定理の適用は,素直にやるのみ:
生物の個体Aを<n個の原子のふるまい>と見なす。
世の中の原子全体のふるまいの平均値をμ,標準偏差をσとする。
A (<n個の原子のふるまい>) は,<平均μ,標準偏差 σ/√n の正規分布>を描くように,ブレる。
特に,nが大きいとブレは小さくなり Aはμに収まる。
- 引用/参考文献
- 福岡伸一 (2007) :『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 1891), 講談社, 2007
- Schrödinger, Erwin (1944) : What Is Life? Macmillan, 1944
- 岡小天・鎮目恭夫[訳]
- 『生命とは何か―物理学者のみた生細胞』(岩波文庫), 岩波書店, 1951.
- 『生命とは何か―物理的にみた生細胞』(岩波文庫), 岩波書店, 2008.
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