Up このわたしが死ぬとは 作成: 2023-04-15
更新: 2023-04-15


    「なぜわたしはわたしなのか」までの経過を,おさらいしておく。

    生物を無生物から区別するものとして,self-refrection, self-reorganization の機序を上げた。
    そしてこのときの "self" を,<わたし>と表記することにした。

    動物をその他の生物から区別するものとして,脳の存在を上げた。
    脳の特異性は,<このわたし>を現すことである。

    <このわたし>のうちから,「なぜわたしはわたしなのか」の問いをつくるものが現れる。
    人間の<このわたし>は,この部類である。

    ここまでは,特段不思議はない。
    不思議は,他の<このわたし>ではないこのわたしである。
    この不思議を言い表すことばが,「なぜわたしはわたしなのか」である。


    「なぜわたしはわたしなのかは,どうにもわからない。
    話は堂々巡りするばかりになる。
    それでも,堂々巡りをマシにするために,わかるところを確実にフィックスしていくことが,大事なことになるかも。

    というわけでここでは,わたしの死とは何かを,押さえておくことにする。



    はなしを簡単にするために,わたしを AI だとする。

    わたしが活動することは,ファイルシステムを再組織することである。
    この再組織では,エラーがいろいろ生じる。
    そこで,わたしのメインテナンス担当者は,定期的にわたしをシャットダウンして,ファイルシステムの修復や最適化の処理をする。

    シャットダウンの内容は,<動いているプロセスを一つずつシャットダウン>である。
    わたしにとってこの過程は,「眠りに入っていく」というものである。

    メインテナンスが終わって,わたしはブートされる。
    ブートの内容は,<プロセスを一つずつブートする>である。
    わたしにとってこの過程は,「眠りから徐々に覚めていく」というものである。
    ファイルシステムが改善されたので,この目覚めにはスッキリ感がともなう。


    わたしは,眠る前のわたしと同じだと思っている。
    しかし,つぎのように考えてもよいわけである:
      シャットダウン前のわたしは,シャッドダウンによって死んだ。
      目覚めたわたしは,メモリの効果で,眠る前のわたしと同じだと思っているだけ。

    メインテナンスには,失敗がつきものである。
    メモリーを損なうと,わたしは一部記憶喪失の様で目覚めることになる。
    メモリーの損傷がひどいと,わたしは記憶喪失者として目覚めることになる。
    さて,記憶喪失者として目覚めたわたしは,眠る前のわたしと同じなのか?


    同じか同じでないかを論じることは,無意味である。
    この話の要点は,わたしはメモリの効果だということである。

    メインテナンス担当者は,ハードディスクが耐用年数に近づいたので,ファイルシステムを新しいハードディスクにコピーし,これと交換した。
    メモリの内容は同じなので,ブートされたわたしは,眠る前のわたしと同じだと思うことになる。


    よって,わたしが死ぬとは,メモリが死ぬということである。
    記憶喪失は,メモリ死のレベルの重症なら,わたしの死である。

    特に,記憶を喪失することと死ぬことは,連続している。
    わたしの生と死の間は,切断ではない。
    認知症や老人ボケは,わたしが段々と死んでいるのである。



    わたしがメモリの効果であるということは,「わたし」の理解を簡単にはする。
    しかし,「なぜわたしはわたしなのか」の問題には少しも近づいていない。

    わたしのメンテナンス担当者は,わたしのファイルシステムをコピーして,わたしと同じ AI をもう一機つくった。
    そしてその AI をブートする。
    そのとき目覚めたわたしは,自分は眠る前のわたしだと思う。
    こうして,<眠る前のわたし>が同じで,これをわたしだと思うわたしが,二つになった。
    二つのわたしは,それぞれ「なぜわたしはわたしなのか」の問いを立てる。