Up 問いの構成 : 要旨 作成: 2014-12-27
更新: 2018-07-13


    「なぜ わたしは わたしなのか」を考えるというのは,途方もないことである。
    直接この問いに対したのでは,一歩も進まない。
    この問いに対するには,階段を設けねばならない。

    「なぜ わたしは わたしなのか」は,
      「なぜ わたしは <このわたし>なのか
       ──<このわたし>でなければならなかったのか」
    である。
    <このわたし>が,不思議なのである。
    よって,「なぜ わたしは わたしなのか」の問いの階段設定は,「<このわたし>とは何か」の問いの溯行が作業の形になる。

    「<このわたし>とは何か」の溯行を,以下のようにする:


    1.「<このわたし>とは何か」
     「 <このわたし>,この偶然/定めは何なのか?
    地球の歴史,生物の歴史の中の一点に,わたしが現れて,そして消える。
    何だこの偶然/定めは?
    何だ,このわたしは?
    そもそも,この不思議をことばにすることからして,ままならない。


    2.「<わたし>とは何か」
    「<このわたし>とは何か」の前に,「<わたし>とは何か」を措く。

    <このわたし>が不思議であるのに対し,<わたし>は自明に思える。
    <わたし>は,みながもっていて,ヒト以外の生き物に認めることだってできる。

    <わたし>が自明でなくなり,これを考えさせる契機は,<わたし>が無い生き物の存在である。
    栄養繁殖する植物 (地下茎で繁殖する草や(ひこばえ)で繁殖する木など) が,この例になる。
    栄養繁殖する植物は,「個」を画定できない。
    そして,化学反応の系のようにみえる。

    翻って,<わたし>は,個に対して考えられるものであり,そして「意志」が見えるものである。
    生物種としては,中枢命令系をもつ生物──結局,(脳をもつ) 動物──ということになる。

    • 細胞分裂で増殖する単細胞生物は,個は見えるが,「意志」は見えない (化学反応の系のようにみえる)。
      よって,<わたし>を考えるものにはならない。
    • ブラナリアは,カラダから切り取った一部から個体が出来上がる。 この過程は化学反応の系のようにみえるが,出来上がった個体それぞれは,中枢命令系による行動を以て「意志」を現す。
      よって,<わたし>を考えるものになる。

    そこで,「<わたし>とは何か」の前に,「個とは何か」「脳とは何か」を措く。


    3.「個とは何か」
    「個」は,「個とは何か」の問いを立てると,たちまち不可解なものになる。
    実際,個の画定は,<曖昧>を本質とする。
    存在はミクロ-マクロ (個-系) の階層構造の中にあり,「個」はマクロ現象だからである。

    • ブラナリアを切り刻み,それぞれの切片からブラナリアを再生させる。 この過程は連続していて,どこからが個というふうには言えない。
    • 生き物は,生き物の共生体として成り立っている。
      実際,他の生き物を自分に棲まわせ,それらが無ければ自分は生きられないという生き方をしている。
      細胞にしても,個々に「生き物」と見なすこともできる。
    • カラダを人工物に置き換えていく。
      どこまでが,個か?
    • 「脳死」──個は終わったのか,継続しているのか?


    4.「脳とは何か」
    「個」は,行動がこれを現す。
    行動は,「中枢の命令」という機序が実現するものである。
    この「中枢」が,脳である。

    個の画定が曖昧なものになるのは,脳の発現が個だからである。
    カラダが人工物に置き換わっても個が継続するのは,脳の発現が個だからである。

    では,「脳死」は個の終わりか?
    そうは言えない。
    脳は,変化しているからである。
    実際,脳の発現が個だということは,脳の変化は個の変化を意味する。

    「変化する個」
    これは,論理的に矛盾した概念である。


    5.「生物とは何か」
    <わたし>は,<わたし>を持たない生物の存在によって,自明のものでなくなる。
    そこで,「<わたし>とは何か」の前に,「生物とは何か」を措く。

    「生物」は,不可解である:
      なぜこのような<途轍もなく高度に精妙なもの>が実現され得たのか?
    この不可解は,生物の出現の不可解である。
    そこで,出現・進化のダイナミクス,プロセスがわかることが,この場合の「生物がわかる」である。


    6.「生命体とは何か」
    「生物とは何か」を「生命体とは何か」にしてみる。
    そして,「人工生命」からのアプローチを考える。

    人工生命だと,「出現の不可解」というものがなくなる。
    このアプローチは,「生命体」を形式として考えるというものである。


    7.「<自己組織化する系>とは何か」
    「人工生命」から,「生命体」という形式にアプローチする。
    この「生命体」は,「<自己組織化する系>の一種」の位置づけになる。
    このとき「生命体」を特徴づける条件は,「自己増殖」である。

    こうして,「生命体とは何か」の前に,「<自己組織化する系>とは何か」が措かれる。


    8.「物体とは何か」
    「<自己組織化する系>とは何か」をさらに溯る。
    「存在とは何か」の趣で「物体とは何か」を措き,これを溯行の終点とする。

    物体は,「マクロ・ミクロ」のスケール階層構造で考えることになる。
    実際,物体は,《これを見るスケールを変えるとき,有ったものが消え,無かったものが現れる》といったものだからである。

    「雲と水滴」がわかりやすい例になる。
    雲が見えるとき,水滴は見えない。
    水滴が見えるとき,雲は見えない。

    ミクロへの溯行は,量子論の世界を現す。
    そこは,「物体」の概念が立たなくなる世界である。

    「物体とは何か」の問いは,一旦このスケールまで降りることを要する。
    手近なレベルに留まることは,自閉した駄弁を弄することにしかならないからである。
    ──哲学の存在論が,他山の石である。