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Dawkins (1989), p.42
自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らのいれもの、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。
生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械 (survival machine) を築いたものたちであった。
最初の生存機械は、おそらく保護用の外被の域を出なかったであろう。
しかし、新しいライバルがいっそうすぐれて効果的な生存機械を身にまとってあらわれてくるにつれて、生きていくことはどんどん難しくなっていった。
生存機械はいっそう大きく、手のこんだものになってゆき、しかもこの過程は累積的、かつ前進的なものであった。
自己複製子がこの世で自らを維持していくのに用いた技術や策略の漸進的改良に、いつか終りがおとずれることになったのであろうか?
改良のための時間は十分あったにちがいない。
長い長い歳月はいったいどのような自己保存の機関を生みだしたのであろうか?
40億年がすぎ去った今、古代の自己複製子の運命はどうなったのだろうか?
彼らは死に絶えはしなかった。
なにしろ彼らは過去における生存技術の達人だったのだから。
とはいっても、海中を気ままに漂う彼らを探そうとしても、むだである。
彼らはとうの昔にあの騎士のような自由を放棄してしまった。
今や彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団となって群がり、曲りくねった間接的な道を通じて外界と連絡をとり、リモート・コントロールによって外界を操っている。
彼らはあなたの中にも私の中にもいる。
彼らはわれわれを、体と心を、生みだした。
そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。
彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。
今や彼らは遺伝子という名で歩きつづけている。
そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。
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- 引用文献
- Dawkins, Richard (1989) : The Selfish Gene (New Edition)
- Oxford University Press, 1989
- 日高敏隆・他[訳]『利己的な遺伝子』, 紀伊國屋書店, 1991.
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