Up はじめに 作成: 2014-12-27
更新: 2018-10-28


    「なぜわたしはわたしなのか」は,わたしの余生にとっておいたテーマである。
    これの論考を,いまからはじめようとする。

    答えのようなものが出来上がってくることは,期待していない。
    主題の周りをグルグル回るだけの論考にしかならないことも,わかっている。

    論考しようとするのは,「これをしないでどうする」の思いによる。
    せっかくこの世に現れて,この現れた不思議について考えることをしないでどうする,というわけである。
    問いを先延ばしにして結局思考停止で終わるというのは,やはり惜しいことである。

    実際,これまでの人生はこれから行うことの準備運動であった,と思うことにする。


    <このわたし>論は,参考になるものは皆無である。
    「霊魂」とか「コギト」は,幼稚な論として「他山の石」にするくらいのものである。
    挫折した論考は山とあるはずだが,それらはもとより残されてあるものではない。

    「なぜわたしはわたしなのか」の論考は,当ての無い論考であり,勝算の無い論考である。
    そこで,無駄では終わらない形の論づくりを考える。

    「なぜわたしはわたしなのか」の「わたし」──<このわたし>──は,「生物の<わたし>」がこれの前段になる。
    この「生物の<わたし>」の論を,副産物と定めることにする。
    <このわたし>論は超越論の予感がするが,<わたし>論は科学に収まる内容だからである:
      <わたし>論は,「<生物>とは何か」に溯行する。
      「<生物>とは何か」は,「<物>とは何か」に溯行する。
      これを,科学 (反思弁) を構えにしてやってみることにする。