Up 「霊魂」論の無理 作成: 2016-04-01
更新: 2016-04-09


    この社会では,「霊魂」を信じているパフォーマンスをすることが,マナーである。
    一方,この社会は,地球史や生物学の知見をもっている社会である。
    マナーと知見を両立させるために,「霊魂」は思考停止の相で思うものとなる。
    少しまともに考え出すことは,「霊魂」概念の無理を直ちに曝し出すことだからである。

    少しまともに考え出せば直ちに曝け出される無理とは,つぎのようなものである:

    その1
    <わたし>とは霊魂であるとする。
    そして,わたしがカラダAと<わたし>のペアだとする。

    <わたし>は他のカラダBにも乗りうつることができるか?

    乗りうつれるとしよう。
    しかしこのとき,カラダAのわたしは,カラダBのわたしを,わたしとは認められない。

    これは,<わたし>が霊魂である必要はないということである。
    霊魂としての<わたし>には,機能が無い。
    即ち,存在として空回りしている。


    その2
    「霊魂」の発想は,「カラダは霊魂の仮の住まい」の発想である。
    そこで,「カラダから切り離された霊魂のアイデンティティーは何か?」となる。
    実際,Aの霊魂A は,他のBの霊魂B と違わねばならないわけである。

    そのアイデンティティーは,「心」か?
    確かに,霊魂A を想うときは,Aの「心」を回収したもののようにイメージされているところがある。

    しかし,「心」を用いるのは,うまくいかない。
    「心」はカラダの機能──特に,脳の機能──である。
    「霊魂」はカラダから切り離して考えるものだが,「心」はカラダから切り離せない。
    そして,「心」は,カラダの成長・衰えとともに,変化している。
    どの時点のものを「心」にするかという話になってしまう。

    では,「生涯」をアイデンティティーにするのはどうか?
    これもうまくいかない。
    例えば,Aが 70歳で死んだとして,その70年の「生涯」をどう捉えるかという話になる。
    葬式だと,Aの知人がAのトピックスを拾い上げてそれをAの「生涯」にしてしまえるが,ここで問題にする「生涯」はこのようなものではない。
    ここで問題にする「生涯」は,時空間の事態であり,<連続>がこれの位相である。
    一方,「トピックス」は,言語の機能である。

    霊魂A のアイデンティティーは,Aのよすがである。
    いま「心」は無理,「生涯」も無理だとなるとき,よすがとして何を考え出すことができるか。
    Aのよすがが無ければ,霊魂A を立てる意味がない
    せっかく「霊魂」を立てても,その霊魂には機能がなく,したがって何物でもない。

    「霊魂」の発想の矛盾構造は,《「霊魂」を立てようとするとき,それは何物でもなくなる》である。