Up 電気自動車 (EV) : 要旨 作成: 2024-01-04
更新: 2024-01-04


    ひとは,「エコ」「クリーン」「脱炭素」を絶対善にする。
    このことばを聞かされると,思考停止する。
    絶対善は,ただ受け入れればよいものであり,その内容を詮索するものではないからである。

    ひとが「エコ」「クリーン」「脱炭素」を絶対善にするのは,洗脳の成果である。
    洗脳してきたものは,イデオロギーである。
    そしてこのイデオロギーに乗っかって一儲けしようとするビジネスである。

    電気自動車──以下, EV ──は,ひとのこのような生態の中から出て来たものの一つである。
    ひとはEVを絶対善にする。
    EVの内容を詮索しようとはしない。
    絶対善を自認するマスコミは,EVで自国が他国の後塵を拝していることを批判する。


    EVの対極は,歩行である。
    ガソリン車や自転車は,EVと歩行の間に位置づく。
    EVと歩行の二極は,どんな二極か?
    人工インフラへの依存度の二極である。

    歩行は,生物の移動と同じで,人工インフラを要しない。
    EVは,人工インフラがなければゴミである。

    EVを特徴づける人工インフラは,名前がそのまんま表すように,電気である。
    電気がなければ,ゴミである。
    EVは,つねに電気にアクセスできることを前提にする。


    この前提は,簡単に壊れる。
    電気は,いろんな事故で停電する。
    例えば地震。
    大地震は,たいてい停電をもたらす。
    電力インフラが物理的に壊れることもあるが,電力システムを壊さないために強制停電するしくみになっているからである。

    こういうわけで,EVは頼りにならない。
    車をEVに替えることは,肝心なときに車が使えないということである。
    しかしひとは,EVの危うさについては思考停止する。
    「エコ」「クリーン」「脱炭素」に洗脳されているからである。


    ちなみに,大地震が大災害になるのは,現代病である。
    大地震は,生活が狩猟採集生活であれば,どうってことはない。
    カラスにとって大地震がどうってことないのと,同じである。
    現代人にとって大地震が大災害になるのは,生活が人工インフラにベッタリだからである。
    大地震は,人工インフラを破壊する。
    よって,大地震は大災害になる。


    さて,EVに対するひとの思考停止のうちに,電池に対する思考停止がある。
    ひとは,電池をどうにでもなるものだと思っている。
    空気があるのを当たり前に思うように,電池があるのを当たり前に思っている。

    EVは,電池のとんでもない大食らいである。
    EVに搭載される電池は、小さなリチウムイオン電池を直列につないだものであり,その数は何千にもなる。
    一方,四輪車の年間生産台数は,世界で 8千5百万台 (2022年)。
    保有台数だと,15億7千万台 (2021年)。

    電池の原料は,鉱床を掘って採る。
    今後しばらくは,電池原料の乱採掘・争奪戦が展開されることになる。
    その「しばらく」は,「取り尽くすまで」ということである。

    ひとはEVを「エコ」「クリーン」だと思っているが,それは乱採掘・争奪戦の形を思うことが無いからである。
    採掘地の周辺は広く荒廃することになり,実際サバク化する。
    例えばリチウムの場合,採掘でいま盛り上がっているところは南米 (「リチウム・トライアングル」) だが,そこはサバク化が急速に進行している。


    ひとは,こういうことを何も知らない。
    それどころか,サバク化を進める張本人たちを,<EVによってエコ,クリーンを実現しようとするいい人たち>と思うことになる。

    併せて,サバク化を進める張本人たちは,自分たちの行為を隠すために,サバク化の犯人をでっち挙げる。
    「二酸化炭素」というわけである。
    サバク化を,「地球温暖化」だと説く。
    ひとは,この詭弁にも簡単に騙されてくれる。