Up | アニミズム | 作成: 2021-11-18 更新: 2021-11-18 |
すぐ目につく論のおかしさは,熱帯植物ミモザの研究である。 そのミモザは,これまで雨にあたったことがなかったのだろうか? しかし,そんな粗忽を突いてもつまらない。 問題は,なぜひとは自然現象に「自己組織化する主体」を読みたがるのか,というところである。
答えは,「ひとの知能はアニミズムまで」。 ひとは,系の自己組織化を主体抜きで考えることができない。 言い換えると,主体の無い自己組織化の概念を,理解できないのである。 無生物と生物は連続している。 生物も,物理・化学的系であり,それ以上でも以下でもない。 「自己組織化」は,物理・化学的反応である。 そして物理・化学的反応は,物理・化学的理に対する系の順応である。 水は,容器に応じて形を変える。 水は,油に対し反発する。 それは系の自己組織化であり,そして物理・化学的理に対する系の順応である。 ひとは,体制に応じて思考・行動を変える。 ひとは,異質なものに対し反発する。 それは系の自己組織化であり,そして物理・化学的理に対する系の順応である。 木に「学習する主体」を想うのは,倒錯である。 アニミズムの倒錯である。 翻って,ひとは自分には主体があると思っているが,これも錯覚である。 自分には主体があると思うことも,物理・化学的理に対する系の順応のうちである。 「主体」を主題化する形は,「主体とは何か」ではない。 「歴史──これには<自分には主体があると思う存在>を現すことが含まれる──とは何か」である。 ダーウィンの「進化論」は,生物に焦点を当てた歴史論である。 アニミズムは,生物がなぜ斯くあるかを「知能」で説明する。 「斯くあるべしを学習して,斯くある」と説明する。 これに対し進化論は,生物がなぜ斯くあるかを「自然選択」で説明する。 「斯くあるようになるものが選択されて現前している──それらは斯くある」で説明する。 ひとは,自分は特別であり,そしてこの特別は「主体の特別」であると思う。 そう思っておればよい。 ひとはそう思うようになっている。(斯くあるものとして自然選択され現前している!) しかしひとの思う「主体は個々に特別」は,事実は「ヒトの潜在性の発現/実現は個々に特別」なのである。 Wohlleben, Peter (2015) :
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