イデオロギーは,事象に自分が見たいものを見るようになる。
悪と見たいものには悪を見るようになり,善と見たいものには善を見るようになる。
そして,己を保つにおいて不都合なことは,見ない。
こうして,イデオロギーは事実捏造をするものになる。
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Wohlleben (2015), pp.25-15.
‥‥‥ ブナなどの木は仲間意識が強く、栄養を分け合う。
弱った仲間を見捨てない。
仲間がいなくなると、木と木のあいだに隙聞ができ、森にとって好ましい薄暗さや湿度の高さを保てなくなってしまうからだ。
つまり、局所的な気候が変わってしまう。
最適な気候が維持できてはじめて、それぞれの木は自分のことを考え、自由に生長できるようになる。
そうはいっても、完全に自由なわけではない。
少なくともブナの木は "公平さ" に重きを置いている。
‥‥‥
太い木も細い木も仲間全員が葉一枚ごとにだいたい同じ量の糖分を光合成でつくりだせるように、木々は互いに補い合っている。
この調節は地中の根を通じて行なわれているのだろう。
根を使って、私たちが想像する以上の情報が交換されているにちがいない。
豊かなものは貧しいものに分け与え、貧しいものはそれを遠慮なくちょうだいする。
ここでも、菌類の巨大なネットワークが活躍し、出力調整機のような役割を果たしている。
あるいはまた、立場の弱いものも社会に参加できるようにする社会福祉システム、といえるかもしれない。
‥‥‥
樹木自身の幸せは、コミュニティの幸せと直接的に結びついている。
弱者がいなくなれば、強者の繁栄もありえない。
森の木々はまばらになり、日光と風が直接入り込み、湿った冷たい空気が失われる。
その状態が続くと、強い木も病弱になり、まわりの木のサポートに頼らざるをえなくなる。
そんなときにまわりに木がなければ、どんな巨木でも害虫がついただけで死んでしまう。
‥‥‥
"社会の真の価値は、そのなかのもっとも弱いメンバーをいかに守るかによって決まる" という、職人たちが好んで口にする言葉は、樹木が思いついたのかもしれない。
森の木々はそのことを理解し、無条件にお互いを助け合っている。
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自然は,<対立>の均衡相である。
生態系は,この均衡相のうちである。
<対立>の均衡相はひとのつくり出せるものではないので,アダム・スミスは「神の見えざる手」と呼んだ。
ダーウィンは,対立均衡化のダイナミクスを「自然選択」のことばで説明した。
これが「エコ」イデオロギーの手にかかると,「助け合い精神」の話になる。
なぜか?
「エコ」イデオロギーは,お里が平等/公平コミュニティー主義──この意味での「コミュニズム」──だからである。
そして,ひとは「エコ」イデオロギーの事実捏造に騙される。
「太い木も細い木も仲間全員が葉一枚ごとにだいたい同じ量の糖分を光合成でつくりだせるように、木々は互いに補い合っている」と言われたら,そのまま信じてしまう。
知識を持ち合わせていないことも原因だが,それ以上に,もともとこのようなことばで感動させられたくて書を選んでいるからである。
ひとは,「助け合い精神」をイデオロギーにしている。
「助け合い精神」を語ってくるものは,何でも受け入れる。
科学のことばは,「助け合い精神」のことばには到底太刀打ちできない。
引用文献
Wohlleben, Peter (2015) :
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Das geheime Leben der Bäume : Was sie fühlen, wie sie kommunizieren ─ die Entdeckung einer verborgenen Welt.
Lutvig Verlag, 2015.
長谷川圭[訳]『樹木たちの知られざる生活──森林管理官が聴いた森の声』, 早川書房, 2017.
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