Up | 「権利」イデオロギー | 作成: 2021-11-26 更新: 2021-11-26 |
「権利」を立てる文化に対し,そうでない文化がある。 日本は古来後者の方であって,「権利」は文明開化期に入って来た舶来物である。 「権利」を立てる文化とそうでない文化の別は,マニュアルの文化と裁量の文化の別である。 マニュアルの文化は,裁量を信用しない。 一方,裁量の文化は,マニュアルを信用しない。 マニュアルは,自家撞着する。 裁量を択るのは,マニュアルが自家撞着するものであることをわかっているからである。 しかし,マニュアルの文化にいると,マニュアルの自家撞着が見えない。 「権利」を立てる者は,権利を与えようとする対象を,無意識に<個>に定めている。 しかしその対象は,多様な生物の系──生態系──である。 そして多様な生物にまとめて「権利」を与えるなんぞは,できないことである。 実際,「権利」を立てる者はつねに,多様な生物のうちから特定のものをひいきにしている。 そのひいきにした生物が「社会的な生活を営み、健全な土壌と気候のなかで育ち、自分たちの知恵と知識を次の世代に譲り渡す」を貫徹するためには,他の多くの生物が憂き目を見なければならない。 「道端に咲く花を意味もなく摘むことは許されない。」 ──この言い方をする者は,「花」に対して「無下にしていいもの」を無意識に立てていることに,アタマが回らない。 裁量の文化にいる者は,「権利」を立てる者のこの身勝手・幼稚さを見てとる。 こうして,「権利」がイデオロギーであることを見てとる。 ちなみに,いまの日本はマニュアル文化であるが,30年くらい前まではこうではなかった。 このわずか 30年くらいの間に急激に変わって,こうなったものである。 Wohlleben, Peter (2015) :
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