Up 「権利」イデオロギー 作成: 2021-11-26
更新: 2021-11-26


      Wohlleben (2015), pp.246-248
     問うべきは、人間が必要以上に森林生態系を自分のために利用していいのか、木々に不必要な苦しみを与えてしまってもいいのか、ということだろう。
    家畜と同じで、樹木も生態を尊重して育てた場合にだけ、その木材の利用は正当化される。
    要するに、樹木には社会的な生活を営み、健全な土壌と気候のなかで育ち、自分たちの知恵と知識を次の世代に譲り渡す権利があるのだ。
     ‥‥‥
     ドイツの憲法には「動物、植物、およびほかの生体を扱うときには、その生き物の尊厳を尊重しなければならない」と記されている。
    これを守るなら、道端に咲く花を意味もなく摘むことは許されない。


    「権利」を立てる文化に対し,そうでない文化がある。
    日本は古来後者の方であって,「権利」は文明開化期に入って来た舶来物である。

    「権利」を立てる文化とそうでない文化の別は,マニュアルの文化と裁量の文化の別である。
    マニュアルの文化は,裁量を信用しない。
    一方,裁量の文化は,マニュアルを信用しない。

    マニュアルは,自家撞着する。
    裁量を択るのは,マニュアルが自家撞着するものであることをわかっているからである。
    しかし,マニュアルの文化にいると,マニュアルの自家撞着が見えない。


    「権利」を立てる者は,権利を与えようとする対象を,無意識に<個>に定めている。
    しかしその対象は,多様な生物の系──生態系──である。
    そして多様な生物にまとめて「権利」を与えるなんぞは,できないことである。

    実際,「権利」を立てる者はつねに,多様な生物のうちから特定のものをひいきにしている。
    そのひいきにした生物が「社会的な生活を営み、健全な土壌と気候のなかで育ち、自分たちの知恵と知識を次の世代に譲り渡す」を貫徹するためには,他の多くの生物が憂き目を見なければならない。

    「道端に咲く花を意味もなく摘むことは許されない。」
    ──この言い方をする者は,「花」に対して「無下にしていいもの」を無意識に立てていることに,アタマが回らない。

    裁量の文化にいる者は,「権利」を立てる者のこの身勝手・幼稚さを見てとる。
    こうして,「権利」がイデオロギーであることを見てとる。


    ちなみに,いまの日本はマニュアル文化であるが,30年くらい前まではこうではなかった。
    このわずか 30年くらいの間に急激に変わって,こうなったものである。



    引用文献
     Wohlleben, Peter (2015) :
       Das geheime Leben der Bäume : Was sie fühlen, wie sie kommunizieren ─ die Entdeckung einer verborgenen Welt.
    Lutvig Verlag, 2015.
    長谷川圭[訳]『樹木たちの知られざる生活──森林管理官が聴いた森の声』, 早川書房, 2017.